アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤圭樹 編集 『小樽散歩案内 新版』

 近年では春から秋のあいだの毎週月曜日に限り、小樽港を発着する大型フェリーを、あえて駅前から見える第三埠頭に停泊させることも行われている。「港町小樽」を印象付けようとの演出だ。(p.20)


細かな演出が考えられていることに感心したが、なぜ月曜日なのかは疑問。観光客が少ない曜日のように思うからである。むしろ金曜日の夜などに見えるようにしておけば、土曜日だけの日帰り客の一部を金曜日の夜からの滞在型へと移行させることもできるのではないか、という気がする。



「色内一帯は『北のウォール街』と呼ばれた……』というお決まりのフレーズだが、結局のところほとんどマスコミや、文献の執筆者たちによって“呼ばれた”だけのようで、少なくとも一般市民のあいだで、そんな呼称はまったく使われていないのだ(当たり前だが)。(p.37)


そこに住む人々の感覚と宣伝しようとする人たちとの間にはズレがある。この指摘は重要であるように思われる。



 日銀の小樽進出は明治26(1893)年4月にさかのぼる。当初は札幌出張所に所属の《派出所》扱いだったが、明治39年には札幌出張所を廃止、同時にそれまで函館にあった支店を出張所に降格させ、小樽が支店へと格上げされた。大阪、西部(北九州)、名古屋と並ぶ4つ目の支店となる“大抜擢”で、この時代の小樽という街の重要性が伺える。(p.38)


明治39年といえば、1906年であり、ちょうど日露戦争が終結した翌年にあたる。樺太の南半分を領土とし、そこへの中継点として小樽が位置づけられていく時期にあたり、日銀の進出もそうした社会的背景があると思われる。

小樽という街がいかに日露戦争と関係が深いかということを示すエピソードであるように思われる。

ちなみに、現在の日本銀行旧小樽支店(辰野金吾の設計した建築として知られる)が建てられたのは、明治45年であり、支店がおかれた6年後のことであり、現在に残る建築家らも当時の位置づけの高さを見てとることができ、興味深い。



 小樽駅裏手の高台に広がる富岡は、明治30年頃から宅地の造成が始まった住宅地だ。榎本武揚の所有地を管理する《北辰社》(→P25)が一帯の開発・造成を進めた結果、明治末から大正時代にかけて実業家がこぞって邸宅を構え、お屋敷町を形成した。
 現在の富岡にその時代から残る邸宅はほとんどないが、一帯には今も立派な構えの家が目立ち、高級住宅地の雰囲気を残している。大きな敷地を生かしてマンションが建ったところも少なくはないが、それでも街並みのあちこちに残る立派な石垣(→P70)にかつての屋敷町の名残を見ることができる。(p.72)


船見坂が火防線として切り開かれたことが富岡が住宅地となる一つの契機となったという。駅の裏手はかなり急な山になっているので、商業地にはなりえず、地理的な条件からしてもやはり住宅地になるべくしてなったと言えそうである。

現在残る歴史的建造物としては旧遠藤又兵衛邸がある。これは明治35年竣工の邸宅であり、まさに宅地の造成が始まった時期に建てられたことがわかる。

マンションや石垣が屋敷町の名残というのは、今後、都市を読み解いていく際に参考になりうると思われる。

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