アヴェスターにはこう書いている?
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柄谷行人、小嵐九八郎 『柄谷行人 政治を語る』(その2)

 たとえば、「意味という病」というエッセイ(1972年)は、マクベス論なのですが、連合赤軍の事件を念頭において書いたものです。しかし、これは60年代の初めから考えていたことなのです。先にもいったように、安保闘争のあとに、「マルクス主義は終わった」という合唱があった。70年以後も、歴史に目的はない、意味はない、という声が出てきた。80年代には、それがポストモダニズムとして風靡した。そして、90年代には、それが常識となった。しかし、そうはいかないんですよ。「意味という病」は片づかない。現に、宗教的原理主義があるでしょう。今後にも、「意味」にとりつかれた人たちが出てくるに決まっています。(p.49)


意味という病は片付かないというのは妥当な認識であり、サンデルの共通善の政治学が主張するリベラリズムの中立性の理想への批判とも通じるものがある。

なお、柄谷が同様の認識を示している箇所としては、

理念を必要とする時代は全然終わっていないのです。(p.70)



という件もある。



 この時期の「現代思想ブーム」は、アメリカでもそうだったのですが、フランスの哲学のブームです。なぜそれが流行したのか。いまはこう思う。フランスの現代思想は、一種の政治的挫折のあらわれだったのではないか。現実にできないから、観念において革命を起こそうというものではなかったか。1968年パリの五月革命で、便所に書かれた落書で、「想像力が権力をとる」というスローガンが有名になったのですが、むしろ、想像力が権力をとったのは、五月革命が敗れたあとです。
 どういう想像力か?文学ではない。文学にはもう力がなかった。その逆に、哲学が文学に近づいたのです。それはデリダをみればわかります。……(中略)……。すでに、戦前のハイデガーがそうでした。彼は詩を哲学よりも根底的だとみなしたわけです。しかし、彼がそうしたのは、ナチに参加して、それに失望したあとからだと思います。本当の革命は、ナチ的政治ではなく、文学にしかない、と考えたのでしょう。
 このように、政治的な挫折・不可能性から、文学に向かうのは、別に珍しいことではありません。その場合、言葉の力に頼る、ということになるのです。……(中略)……。
 しかし、これはドイツ観念論の場合もそうだったのです。18世紀末に、イギリスには発達した資本主義があり、フランスには政治的なブルジョア革命があったけど、ドイツには何もなかった。彼らにできたのは、観念的な革命です。これは半端なものではなかった。実際、ドイツの観念論はそれ以後、哲学的な革命のモデルになりました。いまだに、われわれは、カント、フィヒテ、ヘーゲル、マルクスといった哲学史を、反復しているのですから。
 政治的な挫折と無力から、観念論的革命に向かう例は、ほかならぬ日本にあります。京都学派がそうです。……(中略)……。
 じつは、フランスでは戦後に、ドイツのハイデガーを導入するとともに、ドイツ観念論を導入した。ドイツは戦争に負けたが、哲学的には戦後のフランスを占領したのです。ドイツの哲学の言語やスタイルが、旧来のフランス的な哲学・文学(ヴァレリーに代表される)にとって代わった。日本に入ってきた、フランスの「現代思想」はそういう背景をもっていたのです。だから、案外、日本の過去の言説と親和性がある。
 とにかく、こういう思想が流行るときは、現実の政治的な挫折がある。いくら政治的にみえても、その根本に無力感がある。実際、米ソの冷戦構造のなかでは、それを超える可能性はない。ゆえに、それを思弁的な想像力に求めることになる。だから、哲学であれ、何であれ、それは文学的なものになります。日本でも70年以後、吉本隆明が優位になったのはそのせいですね。(p.58-60)


すべてを鵜呑みにはできないが、参考になる認識が含まれている。政治的挫折から文学的な想像力を持つ哲学による観念的革命への志向が生じるというのは、参考になるし、ここで指摘されている思想家たちには、そうした志向があるのは確かだとは思うが、社会的な背景の説明にはやや不満がある。

冷戦構造への挫折としてフランス現代思想が流行するとすれば、それは冷戦構造が始まった時点から形成されなければならない。しかし、実際にはマルクス主義への信頼がなくなった後になってから流行し始めている。そのあたりの説明が欠けている。

ドイツ観念論についてもイギリス、フランスとの比較でざっくりと語るだけでは、なぜドイツなのかという説明にはならない。イタリアやスペインではなくドイツであった理由は何なのか?そのあたりの背景の説明が不足していると考える。



 だから、91年にソ連が現実に崩壊してみて初めて気づいたのは、むしろ、ソ連の存在に依存していたということです。ソ連の崩壊で旧左翼が致命的な打撃を受けたといわれました。しかし、本当は、致命的な打撃を受けたのは新左翼ではないだろうか。というのは、これまで、新左翼はソ連や旧左翼を批判していればよかった。西洋形而上学の脱構築とか、観念的な議論をしていればよかった。つまり、新左翼は、ソ連あるいは旧左翼に依存していたのです。それが崩壊しそうもないから、楽だった。それを批判していれば、何かやっている気になれた。が、現に崩壊してみると、もうそんな態度をとれない。
 80年代に風靡した「現代思想」が急激にリアリティを失ったのもそのせいですね。
たとえば、デリダは西洋形而上学の脱構築、あるいは、二項対立の脱構築ということをいった。これは一見すると、西洋の歴史的起源にさかのぼる雄大な問いのようにみえますが、これがリアリティをもったのは、現実に、アメリカの資本主義とソ連の社会主義という二項対立、つまり冷戦構造を反映していたからです。(p.65-66)


妥当な認識。



僕は、社会主義は根本的に倫理の問題だと思います。社会主義は、いったい何をめざすのか。(p.71)


社会主義に限らず、政治というのは倫理の問題なのかもしれない。ある社会が何を目指すのかということをめぐる問題。



大学の民営化というのは、実際は、国営化です。それまでの大学は、国立でありながら、じつは、文部省から独立していた。つまり、中間勢力でした。民営化によって、こうした自治が剥奪された。私立大学でも同じです。国家の財政的援助の増大とともに、国家によるコントロールが強化されたわけです。(p.82)


なるほど。鋭い指摘。参考になる。



近代の主権国家という概念は、実際は少数の大国にしかあてはまらない。ほとんどの国は他の国家に従属しているのです。古来、国家は存続するためなら連合や従属をいとわないのです。(p.129)


関係論的な視点で国というものを捉える柄谷の見方には、賛同できる点が多い。「国」というものが存在しているとすれば、それは他の国や組織との関係の中で存在しているのであって、何かそれ自体として存続していると考えるのは誤りであろう。



共同体から一度離れた個人でなければ、他者と連帯できない。だから、そのような孤立の面を強調する傾向があったと思います。
 ただ、そういう考え方がだんだん通用しなくなった。それに気づいたのは、1990年代ですね。というのは、この時期に、それまであったさまざまな共同体、中間団体のようなものが一斉に解体されるか、牙を抜かれてしまったからです。……(中略)……。
 そこで、いろいろ考えたのですが、個人というものは、一定の集団の中で形成されるのだ、という、ある意味では当たり前の事柄に想達したのです。ただ、それがどういう集団であるかが大事です。(p.145-146)


この流れは、まさにリベラリズムとそれへの批判からコミュニタリアニズムが出てきたことと呼応しており、非常に興味深いものがある。

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