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アヴェスターにはこう書いている?
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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その2)

 国家権力というものは、イギリスにおいてしばしばそうであるように、いろんな法律よりはむしろ世論なるものを通じて、有効に働かせることができる。新聞の雄弁と影響力とによって、世論なるものは大はばに国家が創り出すのであり、圧政的な世論は圧政的な法律と同じ程度に、自由に対する巨大な敵なのである。戦争に参加しようとしない青年が、雇用先からは解雇され、街頭では侮辱的な扱いを受け、友人たちからは冷遇され、以前は好いてくれたように思えるどの女性からも、軽蔑げに棄て去られる、といったことになると、当の青年にとってそれらの仕置きは、死刑の判決に耐えるのとまったく同じほど、やりきれないものに感じるだろう。(p.34-35、強調は引用者)


昨今の日本においては新聞もそうだがテレビの影響が加わるため、さらにタチが悪くなっている。

圧政的な世論が圧政的な法律よりも抑圧的であるというラッセルの指摘は重要である。例えば、先日、NHKが「ワーキングプア」について報道したら、そのような報道をするなと抗議があったというが、そうした「抑圧的な世論」こそ、危険なのものであり、自由の敵である。

 愛国心とは、原始的諸本能と高度に知的な諸確信とから築き上げられる、きわめて複雑な感情である。そこには故郷、家庭、友人、といったものへの愛着があり、それがわれわれに、自分たちの国を侵略から守ろうとする特別な関心をいだかせる。またそこには、外国人と対比して同胞を好くという穏和な本能がある。さらにそこには、われわれが所属感をもつ共同社会の成功と深く結びついた、誇りというものがある。またさらに、誇りによって示唆されはするが、歴史によって強化される次のような信念がそこにはある。すなわち、自分たち国民は偉大な伝統を代表しており、人類にとって重要なもろもろの理想を代表している、という信念なのだ。しかしすべてこれらのことどもに加えて、より高貴なものであると同時により批判しやすい、今一つの要素がそこにある。それは崇拝の要素、つまり喜んで犠牲となる態度、あるいは個人の生活を喜んで国民生活の中へ融合させようとする要素、なのである。愛国心におけるこの宗教的要素は、国家の強さにとって不可欠の重要性をもつ。なぜならその要素は、大部分の人間の内部にひそむ最良のものを、国家的犠牲の側へ動員するからである。
 愛国心におけるこの宗教的要素は、教育によって補強される。とくに自分自身の国の歴史や文学の知識によって補強されるのだが、ただしその場合、他の国々の歴史や文学に関する多量の知識が伴っていない、ということが条件になるどの文明国においても、若いものの訓育のすべては、自国の長所と他国の欠点を強調するものだ。だから自分たち国民はその優越性の故に、紛争が生じた場合、たとえその起源がどのようなものであれ、自分たちの方が支持される値打ちがある、などとあまねく信じられるようになってしまう。この信念がまさに掛け値なく深いものになるために、人々は戦争がひき起こすもろもろの損害や困窮、苦難を忍耐強く、ほとんど喜んで耐えるにいたる。誠実に信じられたあらゆる宗教がそうであるように、右のような信念もまた、本能に基づいてはいるがその本能を昇華した、ある人生観を与えるのであり、それはどのような個人的目的よりも大きい目的――しかし多くの個人的目的をいわば溶解させて含むところの目的――への献身を産み出すのである。
 宗教としての愛国心は、それが普遍性を欠いている故に、満足すべきものではない。それが目指す善は、自国だけの善であって、人類すべての善なのではない。また宗教としての愛国心がイギリス人に鼓吹する欲望は、それがドイツ人にうながす欲望と同一のものではない。だから愛国者に満ちあふれた世界というものは、紛争に満ち満ちた世界となるだろう。また国民が愛国的信条をより強くもてばもつほど、その国民は他の国民が受ける被害に対して、ますます狂熱的に無関心となるだろう。ひとたび人間が、自分自身の利益をより大きい全体の利益に従属させることを学んだ時には、その全体なるものを人類にまでひろげないですませる、ということの妥当な理由づけはできないはずである。だが実際には、人間の自己犠牲への衝動を、当人の属する国の境界線の内側へ簡単にとどめてしまうものは、国民的誇りという付加的夾雑物なのである。この夾雑物こそが、愛国心を毒するものであり、また宗教としての愛国心を、全人類の救済を目指す信条に較べて劣ったものにさせるのも、その夾雑物なのだ。(p.38-39)



このラッセルの主張には、細かい点ではいろいろと批判はあるが、大まかには賛同できる。(とても90年前の講演とは思えない臨場感を感じてしまう。)

まず、私として確認しておきたいのは、「自分たち国民は偉大な伝統を代表しており、人類にとって重要なもろもろの理想を代表している、という信念」や「国民的誇りという付加的夾雑物」とラッセルが言っているものは、私が見るところでは、ナショナリズムや愛国心にとって本質的なものであり、付加的でも偶然的でもないということである。ラッセルの論では、このあたりが明確でない。

自分(が属する共同体)は特段に偉大であり、愛すべき「美しい」ものであるという信条は、暗黙のうちに、「自国に属しないもの=他国に属する者」は「われわれ」よりも劣るということを前提している。あるいは、少なくともそうした発想を誘発する傾向が強い。だから、それは普遍的なものになることはない。すなわち、ラッセルの言葉で言えば「当人の属する国の境界線の内側」にとどまるローカルなものにすぎない。

そうした指摘に対して「他国を尊重しつつ自国を愛する」などと口先で反論してみたところで、そうしたことができる人間はそう多くない、と再反論できる。というのは、そうした人間はそもそも「愛国心」などという「低次元」のところにはとどまらず、最低でも「人間愛」ないし「人類愛」あるいは「隣人愛」に生きている人だろうから。

そして、こうした愛はすばらしいものだろうが、それを体現している人というのは、そう多くはない。だとすれば、大量現象としてそうした人が社会に満ちあふれることは期待することはできない。

そして、具体的な「隣人を愛する」人は、「国」などというわけのわからない、抽象的なものを本気で愛することはまずないだろうし、愛している場合でも、それを第一に強調するようなことはまずないはずだ。そうした人が愛するのは目の前にいる具体的な人であり、また、まだ見ぬ人ではあっても世界中にいる困っている人であったり、そうした人たちであろうから。

もし、「愛国心」を重要だと思う人で、愛国者は自国だけを愛するのではないと主張したい人は、例えば、北朝鮮の人民をも愛してみてほしい。あるいは、中国の人々でもよい。私はあまりそうした人にはお目にかかったことがないのだ。愛国者であると自称ないし他称であっても、称する人のほとんどすべてが、このような心情を持っていることが示されれば、私も考えを変えるだろうが、残念ながら、恐らく、そうしたことを示す事実は成立しないであろう。


さて、ラッセルの指摘で興味深い点の一つは、「愛国心」が教育によって強化される点を主張していることである。それも、特に歴史や文学の役割が大きいことを指摘している。これらの指摘はまったく正しい。

「美しい国」というナショナリズム的観念を標榜する安倍晋三が、ほとんど誰も重要課題だと思ってもいない「教育基本法」を変えてしまったことは、これに関連している。そして、「愛国的」な人々が歴史教科書を作る会を結成したことも同じである。

ここで私として個人的にかなりウケたのは、その場合に、「他の国々の歴史や文学に関する多量の知識が伴っていない、ということが条件になる」ということをラッセルが指摘したことである。これも全く同感である。ナショナリズムや愛国主義の発言をする人からは正直に言って知性を感じないからだ。(さらに言えば、他者への愛情も感じない。むしろ、他者への憎悪を感じる。)

そして、ラッセルの言葉で至言だと思ったのは愛国者に満ちあふれた世界というものは、紛争に満ち満ちた世界となるだろうという指摘である。大変良い言葉であり、インパクトもある。「愛国心」に必然的に伴う排他的で自己中心的な優越性の信条が、その直接の要因である。

このような紛争に満ちた状態にならないためには、愛国主義のイデオロギーが蔓延する背景にある社会状況を変えていくことはどうしても必要だが、差し当たり、愛国主義が宗教的イデオロギーであり、そのイデオロギーに従うことがどのような帰結に繋がるかということを簡潔に示すという作業は、このイデオロギーにまだ染まっていない人々が、そのイデオロギーに対して警戒することを促しうるため、重要な作業であろう。

なお、私の考えでは、愛国主義者がその宗教的イデオロギーに感染してしまう主な心理的背景は「自分自身に対する自信のなさ」であり――やたらと「誇り」を強調したがるのは、「その人本人が」誇りをもてないからである――それは「日常的に行っている活動の貧弱さ(充実していないこと)」から来ている。展望のない社会(特に雇用・労働の条件の悪化)が社会的活動を妨げる。(それまで働いていた人が職を失えば、社会に貢献している充実感から疎外される。就職しようとして何度も落とされれば、社会から必要とされないと疎外感を強める。幸運にも職を失わなかった人たちも仕事がきつくなり、余暇を楽しむゆとりが失われてきている。雇用条件は不安定化している上に給与も上がらない、等々。)北朝鮮や中国・韓国の問題は、単にそうした人々が、不満な心理をぶつける格好の標的として持ち上げられているにすぎない面がある。社会的活動における不満と外交問題とはコインの表と裏である。

そこで、私は「愛国者」諸氏に次のように言いたい。

「日本が素晴らしいと思うことで、自分が素晴らしいと思えるとしたら、あなたは不幸である。日本が素晴らしいかどうかに関わらず、(活動した後から振り返ったときに)『自分自身は素晴らしい』と思えるように活動しなさい」と。
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