アヴェスターにはこう書いている?
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柄谷行人、小嵐九八郎 『柄谷行人 政治を語る』(その1)

 いまや「68年」というと、世界中どこでも共通したことが起こったようにみえるけれども、そうではありません。また、そのような同一視ができる面があるけれども、同時に、その内容はちがったものだった。たとえば、アメリカの場合、旧左翼の運動は1950年代にマッカーシズムで壊滅させられていた。60年代半ばから、公民権運動(黒人解放)とベトナム反戦運動を契機にして左翼運動が出てきた。それは旧左翼と無関係な新左翼でした。(p.12)


ウォーらーステインなどの議論で1968年の重要性を認識すると、確かに柄谷が言うようにどこでも共通したことが起こったかのように見えるところがある。そうした経緯を通った人には意味のある指摘。



 しかるに、日本の「68年」にはこうした多義性はありません。その意味で、世界同時性というか、西洋と共通した問題として理解できるものです。たとえば、60年の安保闘争は、1955年からはじまった高度経済成長の最中に生じたわけです。64年には東京オリンピックが開催された。この間に、農業人口の比率が急激に減っています。それまでは、日本は半ば農業国でした。60年以後大学への進学率が急激に上がった。大学生がエリートであった時代ではなくなった。ポスト・インダストリアルな社会に移転しつつあったわけです。日本の「68年」は、このような変化の結果として生じたのです。(p.16-17)


わずか50年ほど前のことだが、こうした変化は確かにあった。ただ、1960年代まで「農業国」と言えるかどうかは、戦前から帝国主義の一翼を担ったことなどを考慮に入れるとやや違和感がある。統計的なものも少し調べてからでなければ、今の私には判断できない。



文学には、才能と同時に労働が必要だ。才能と同時に、こつこつやる必要がある。(p.24)


文学に限らず、何にでも言えることであるように思われる。



フランスの「現代思想」は、ある意味で、68年5月革命の挫折から、文学に活路を見出すものだったと思います。哲学といっても、実際は、文学的なものでした。(p.25)


このあたりの位置づけは参考になった。その性格が文学的であるというのも妥当であり、社会的背景に政治的挫折があったため、現実の世界の変革ではなく観念の世界の変革を目指すしかなかったという点も妥当である。



 また、それまでは階級闘争が重視されて、ジェンダーとかマイノリティーとかいった問題は二次的・副次的と思われていたわけですが、68年では、そういう考え方が否定された。また、国家のようなマクロの政治や権力が重視されていたのに、ミクロの権力あるいはマイクロ・ポリティクスという領域に移った。それは68年以降の現象だと思います。このような転換は重要だと思う。ただ、その過程でマクロの次元、国家やネーションという次元を、簡単にかたづけてしまったと思うんですよ。
 その一人はフーコーですね。フーコーはアルチュセール、というより、もっと根本的にグラムシの「ヘゲモニー」という概念から学んだと思うんですが、国家を暴力装置だけでなく、イデオロギー装置としてみる考えからはじめた。その意味で、通常のマルクス主義者とちがって、国家が暴力を独占することによって成立した権力にあるだけでなく、さまざまなイデオロギー的教育的装置のなかで機能しているのだと考えた。権力はむしろ同意にもとづく力(ヘゲモニー)としてある、と。だから、彼は、中心にあるのではないような権力、みえないようなミクロの権力を強調した。いわば、マクロの政治に代わって、ミクロの政治学を強調したわけです。
 これはいいと思う。政治闘争の力点が、階級問題からフェミニズム・ゲイ、その他マイノリティーの問題に移行したとき、こうした見方が助けになったからです。しかし、同時に、これは国家に関する見方をゆがめるものだと思います。グラムシもそうですが、国家が他の国家に対して在ることをみていない。国家が成立したのは、共同体が他の共同体を継続的に支配することによってです。共同体が拡大して国家に転化するとか、その内部で階級対立が生じて国家ができたというようなことはありえない。(p.30-32)


国家は国家に対して在るという柄谷の見方は、関係論的であり、私には馴染み深い発想法だが、「国家」なるものを実態的に捉えてしまう傾向に対して距離を取っていたため、彼と同じ発想はもたなった。ただ、以前の考え方からの変化が生じている現在の私にとっては、参考にすべきものを含んでいるように思える。

確かに、68年以降のパラダイムでは「国家」という問題を簡単に片づけてしまったという点は否定できない。この辺りに関しては、「国家などない」とかつて主張していた、私の友人のことが想起された。



 つまり、一国が何か意志をもった主体であるということは、外からみないとわからないのです。(p.33)


確かに、外部の「観察者」から見ると「一国」が意志を持った一つの主体として見える。ただ、行為者とは異なる観察者からの見方が正しくない場合があるところに、この指摘の問題点があるように思われる。


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