アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『公共哲学 政治における道徳を考える』(その3)

 デューイは、同時代以降の多くのリベラル派と同じく、『偉大なコミュニティ』は国家共同体という形をとるものと想定していた。相互の責任感と国家全体への忠誠心をうまく喚起できれば、アメリカの民主主義は立派に育つはずである。いまや経済も国家単位という規模になった以上、政治組織も国家規模にならなければ後れを取ってしまう。全国市場が大きな政府を招き寄せ、大きな政府はみずからを維持するために、国家共同体の強い連帯意識を必要としたのである。(p.287)


経済がグローバル化して「国民経済」という認識が形成された時期についての、サンデルの歴史認識。



とはいえ現代では、リベラル派よりもむしろ保守派のほうが、市民であること、コミュニティ、共有された公共生活の道徳的前提などについて声を大にして語っている。保守派の示すコミュニティの概念はしばしば偏狭で不寛容なものだが、リベラル派はそれに対して説得力ある答えを返すだけの道徳的な資質に欠けていることが多い。(p.288)


この状態を放置しておくと、保守派の偏狭な道徳的観念が力を持つことを許してしまうというのが、サンデルの問題意識としてあるようであり、私も彼から気づかされたことの一つである。



偶像崇拝の否定の規範的な意味は、偽の神が存在しつづけるところにある。偽の神とは、見当違いな崇拝や忠誠を呼び起こすのに十分な魅力を備えた対象や目標のことである。
 ……(中略)……。
 現代世界において、偶像崇拝の誘惑は政治からほかの領域へと移っている――消費者中心主義、エンターテインメント、テクノロジーへと。(p.310-311)


目的論的な論法により共通善を定めなければ、こうした偽の神に対する偶像崇拝を否定するのは容易ではない。リベラル派の形式主義的な思考方法の難点をついている。



ロールズは正義をめぐる議論に触れ、「哲学において最も根本的な問題は通常、決定的な論拠によって決着がつくことはない」と書いている。「ある人にとっては明白であり、基本的な考え方として受け止められているものが、ほかの人には理解できないのだ。この問題を解決する方法は、十分に展開されたときにどの見解が最も筋の通った説得力のある説明を提示するかを、よく考えたあとで検討することである」(p.53)。同じことが、包括的な道徳をめぐる議論についても言えるのだ。(p.352)


十分に展開するか否かが、漠然とした議論と適切な論証伴う議論の大きな分岐点であるように思われる。



道徳や政治をめぐる論争が、理にかなっていながらも相容れない善の概念を反映しているのかどうか、あるいはきちんと内省し、熟慮すれば、そうした論争が解決できるのかどうかは、内省し、熟慮してみてようやく決まることである。だが、そうだとすれば、政治的リベラリズムにとってさらなる難題が持ち上がる。というのも、それが描き出す政治生活には、対立する包括的な道徳の妥当性を検討する――自分の道徳的理想の価値を他人に納得させたり、他人の道徳的理想の価値を納得させられたりする――のに必要な公共的討議の余地がほとんどないからだ。(p.354)


ここを読んで想起したのは、ウェーバーの「神々の闘争」という言葉である。ロールズを批判したこの論文で、ウェーバーを想起することがしばしばあった。ウェーバーの考え方は当時の新カント派からの影響を受けていることから、カントの系譜に連なるものであり、その点でサンデルのリベラル派に対する批判の多くはウェーバーにも妥当するかもしれないと思い至った。

最近、私はウェーバーの信条倫理と責任倫理の考え方をサンデルの思想によって位置づけなおしてみたいと考えているのだが、その際に、このあたりの着想は役立つかもしれない。



 公共的理性の制約は、政治問題に関する私的な討議や、教会や大学といった組織の一員としてわれわれがなす議論には当てはまらないと、ロールズは認めている。そうした組織では、「宗教的、哲学的、道徳的な考慮」(p.215)が適切な役割を果たすかもしれないからだ。

 

しかし、公共的理性の理念が市民に当てはまるのは、彼らが公共の場で政治的な主張をするときである。

(p.355)


ここもウェーバーの講壇預言の禁止と通じており興味深かったところ。



道徳や宗教を一顧だにしない政治は、やがてみずからに幻滅してしまう。政治論議に道徳的な響きが欠けていると、より大きな意味のある公共生活への憧れは、望ましくない形をとるようになる。モラル・マジョリティのような団体は、裸の公共空間に狭量で不寛容な道徳主義の衣をまとわせようとする。リベラル派が足を踏み入れるのを恐れる場所に原理主義者がずかずかと入り込んでくる。こうした幻滅がもっと世俗的な形をとることもある。公共問題の道徳的側面に取り組む政策がなければ、国民の関心は公人の私的な不行状に集中するようになる。公的議論はますます、スキャンダラスで、センセーショナルで、懺悔的なテーマで占められるようになる。それを伝えるのはタブロイド紙やトークショーであり、やがて大手メディアもそのあとを追うようになる。 
 政治的リベラリズムの公共哲学が、こうした傾向に対して全面的に責任を負っているとは言えない。だが、その公共的理性のビジョンはあまりにも貧弱なため、活力ある民主的生活の道徳的エネルギーを取り込めないのだ。すると道徳的な空白が生まれ、不寛容な道徳主義や、見当違いでくだらないその他の道徳主義を招き寄せることになる。(p.363-364)


この主張はサンデルが随所で繰り返しているものであり、彼の公共哲学が必要とされる所以も多くはここにあると私には思われる。



 正義と善の概念を結びつける二つの方法のうち、第一のものは適切ではない。何らかの慣習が特定のコミュニティの伝統で認められているという事実だけでは、それを正義とするのに十分とは言えない。正義を因習の産物としてしまえば、その批判的な性質を奪うことになるからだ。問題となる伝統が要求するものをめぐって解釈が対立することを考慮しても、それは変わらない。正義と権利に関する議論が、価値判断にかかわる側面を持つのは避けられない。権利を擁護する論拠は本質的な道徳・宗教上の教説に中立であるべきだと考えるリベラル派と、権利は支配的な社会的価値を土台とすべきだと考えるコミュニタリアンは、似たような過ちを犯している。どちらも、権利が促進する目的の内容について判断するのを避けようとしているのだ。だが、選択肢はこの二つだけではない。私の見るところもっとも妥当な第三の可能性は、権利の正当性はそれが資する目的の道徳的な重要性にかかっているとするものである。(p.375-376)


妥当な指摘。伝統主義的なコミュニタリアンと中立性の理想をかかげるリベラル派がどちらも目的に関する判断を避けているというのは鋭い。



 リベラル派は、みずからの見解と矛盾しない形でなら、甚大な被害――たとえば暴力――をもたらすおそれのある発言を制限できる。だが、ヘイトスピーチの場合、何を被害とみなすかはリベラルな人格構想の制約を受ける。この構想によれば、私の威厳は自分の暮らす社会で果たす役割にではなく、自分の役割とアイデンティティをみずから選ぶ能力にある。だが、そうだとすれば、私の威厳は自分が一体感を抱いている集団への侮辱によって傷つくことはないことになる。いかなるヘイトスピーチも、それ自体では被害をもたらさない。リベラル派の見解によれば、最高の尊敬とは、目的や愛着から切り離された自己の持つ自尊心だからである。負荷なき自己にとって、自尊心の基盤は特定の絆や愛着に先立つため、「同胞」への侮辱がそこに及ぶことはない。したがってリベラル派は、実際に身体的被害――ヘイトスピーチそのものとはべつの被害――を引き起こしそうな場合を除いて、ヘイトスピーチの規制に反対するはずだ。(p.380-381)


サンデルの指摘するように負荷なき自己は「同胞」への侮辱によって傷つくことはないし、自己が被害を受けたと感じることもない。実際には、このような侮辱によって人は傷つくことはありうるという点で、リベラルな負荷なき自己は現実とはずれがあることになる。しかし、コミュニティへの帰属意識とそれによるアイデンティティを強調しすぎるとすれば、そこにも違和感を感じる。この点をうまく説明する論理を構築する必要を自分としては感じている。

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