アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『公共哲学 政治における道徳を考える』(その2)

 だが、スポンサー企業が申し分のない客観的な教材を提供したとしても、商業広告が教室にあるのは有害だろう。それは学校の存在目的を損なうからだ。広告は人びとの物欲を刺激し、それを満たすよう促す。一方、教育は欲望について人びとに反省を促し、それを抑えたり昇華させたりするよう促す。広告の目的は消費者を勧誘することだが、公立学校の目的は市民を育てることだ。
 子供時代の大半が商業社会に向けた基礎訓練に充てられる時代に、市民であることを、自分を取り巻く世界について批判的に考えることを生徒を教えるのは、容易ではない。子供たちが企業のロゴ、ブランド名、ライセンス生産された服を身にまとい、歩く広告塔として通学する時代に、学校が消費主義(コンシューマリズム)の精神にどっぷり浸かった大衆文化と一定の距離を置くことはいっそう難しい――そして、それだけに重要である。
 だが、広告は距離を忌み嫌う。広告は場所と場所の境界をぼやかし、あらゆる環境を販売の場にしてしまう。(p.118-119)


こうした「目的論的な論法」の具体例が満載されているのも、私にとっては本書の参考になった点であった。



不釣り合いな名誉に対する憤りは、政治の世界にもよく見られる道徳感情である。これが、公平と権利をめぐる議論をややこしくしたり、ときには激化させたりするのだ。
 ……(中略)……。
 おそらく、名誉の政治学の最も説得力ある例は、労働をめぐる論争に見ることができるだろう。労働者階級の有権者の多くが生活保護を蔑む理由の一つは、それにかかる費用を出し惜しんでいることではなく、その政策が伝える名誉と報酬に関するメッセージに憤慨していることだ。公平と権利の観点から生活保護を擁護するリベラル派は、ここを見逃していることが多い。収入とは、社会に役立つ努力やスキルを引き出すインセンティブである以上に、われわれが何を称賛するかの基準なのである。「ルールを守る働き者」である多くの人びとにしてみれば、家でぶらぶらしている人に報酬を与えるのは、自分たちが労働において費やす努力と受け取る誇りをないがしろにすることにつながる。生活保護に対する彼らの反感は、困窮者を見捨てる理由にはならない。だが、そうした反感からは次のことがわかる。公平と権利を擁護するリベラル派は、みずからの議論の根底にある美徳と名誉の観念を、もっと納得のいくように明確に表現する必要があるのだ。(p.151-154)


生活保護に関する言説で、この辺りをきちんと取り扱っているリベラル派の議論はまだ見たことがない。サンデルの指摘は極めて重要なものと思われる、政策立案者にとっても、このような道徳感情を考慮に入れて制度設計を見直す必要があると思われる。



 哲学者チームが自律と選択を強調するのは、人生はそれを生きる人の所有物であるという考えからだ。この倫理観と対立するのが、人生は授かりものであり、われわれにはそれを守る義務が多少なりともあると見る、広範に及ぶさまざまな道徳観だ。(p.174)


幇助自殺を認めるか否かに関する法廷助言書を出した広義の自由主義的哲学者の「哲学者チーム」に対して、サンデルらコミュニタリアンは後者のような道徳観を前提して議論を組み立てる点に強みがある。

リベラル派の自己観・道徳観はある種の理想主義的なものであるが、現実的には後者のコミュニタリアン的な自己観・道徳観が適合的であるように思われる。ただ、リベラルの理想を現実ではなく理想であることを自覚したうえで追求していくことも重要なことであるようにも思う。



リベラリズムを矯正する手段は多数決主義ではなく、政治と憲法をめぐる議論において、本質的な道徳論議の役割をより積極的に評価することなのだ。(p.186)


サンデルの主張であり、私としてもこのあたりは彼から学びたいと思っている点のひとつ。



 リベラル派は往々にして、自分たちが反対するもの――たとえば、ポルノグラフィや少数意見など――を擁護することを誇りにしている。国家は市民に望ましい生き方を押しつけず、できるだけ自由に価値観や目的を選べるようにすべきだというのだ(他人にも同じ自由を認める限り)。こうして選択の自由に肩入れするせいで、リベラル派は絶えず、許容と称賛、ある行為を許可することと支持することを区別する必要に迫られる。(p.221)


確かに。そして、許可することと支持することとの区別の根拠をその都度考える必要も生じるが、その際の明確な基準はリベラリズム自体にはない。



 コミュニタリアンの反論は次のようなものだが、私はこの意見が正しいと思う。すなわち、不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ、伝統が廃れるときだというのだ。現代において、全体主義の衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。……(中略)……。公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。共通善派の権利派に対する反論は以上のようなものだ。共通善派が正しいとすれば、われわれにとって喫緊の道徳的・政治的課題は、わが国の伝統に内在するが現代では姿を消しつつある、市民共和制の可能性を蘇らせることである。(p.232-233)


共通善を形成するために熟議民主主義が必要とされるだろうが、そのための社会的な基礎として何が必要だろうか?社会学や社会科学の側から考えると、そうした論点が出てくるように思う。



負荷なき自己に閉ざされているのは、選択に先行する道徳的絆で結ばれたコミュニティの成員となる可能性だ。(p.244)


なるほど。



 格差原理が必要としながら提供できないものは、私の持つ資産を共有するのがふさわしいと思える人びとを見分ける方法であり、そもそもわれわれ自身が相互に恩を受け、道徳的にかかわっていることを理解する方法である。だがこれまで見てきたように、格差原理を救い、地位を与えるはずの構成的な目的や愛着は、まさにリベラルな自己から奪われているものだ。それらに含まれる道徳的負担や先行する義務が、正の優先性を傷つけるからである。(p.250)


ロールズの格差原理への批判。やはり負荷なき自己への批判と結びついている。



 このような構成的愛着を持てない人間を想像しても、自由で理性的な行為者の理想像を描くことにはならない。そうではなく、人格や道徳的深みをまったく欠いた人間を想像することになるのだ。なぜなら、人格を持つということは、自分が一つの歴史のなかで行動していると知ることだからである。その歴史は私がみずから招いたのでも支配しているのでもないが、私の選択や行為に影響を与える。(p.251)


人格を持つとは、ここで述べられるのとは異なり、「知ること」ではなく、「行動していること」ではないだろうか。

その歴史性を捨象しているところに、リベラル派の負荷なき自己の貧困があるという指摘は妥当であると思われる。


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