アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『公共哲学 政治における道徳を考える』(その1)

第二に、経済的正義を支持する有力な議論といえども、それだけでは統治のビジョンとならない。豊かな社会の恩恵に浴す機会をすべての人に公平に与えることは、善き社会の一つの側面ではある。しかし、公平さがすべてではない。より大きな意義を持つ公共生活への渇望が、それによって満たされることはない。というのも、公平さによって、自己統治というプロジェクトが、個人を超えた共通善にかかわりたいという人びとの願望と結びつけられることはないからだ。(p.11-12)


なるほど。少なくとも最近10年ほどの日本において、平等志向的なリベラル派が提示するビジョンが正しい場合でも、それだけでは一般大衆の支持を受けられないことが多いのはこのためだということがわかってきた。



 新しい政治経済学の出現は、アメリカ政治において共和主義的要素が消滅し、現代的なリベラリズムが登場する決定的瞬間を示すものだった。このリベラリズムにしたがえば、政府は善き生の構想について中立でなければならない。自分自身の目的を選ぶ力を備えた自由で独立した自己としての人格を尊重するためだ。ケインズ的な財政政策は、こうしたリベラリズムを反映すると同時に、アメリカの公共生活に深い影響を及ぼした。(p.35)


ケインズ主義的な財政政策がリベラリズムが要請する中立性の理想と並行しているものであるということは、本書による示唆を得るまで気づかなかったことである。そして、それがどうして現在は訴求力を持たないのか、ということもこのことによって明らかになったと思う。すなわち、一つ前の引用文がその理由を示していると思われる。



 手続き的リベラリズム理論の問題は、それが奨励する実践のなかに現れる。道徳や宗教を徹底的に締め出す政治は、みずからへの幻滅をすぐさま呼び起こしてしまう。政治論議に道徳的な響きが欠けていれば、より大きな意義のある公共生活への憧れが好ましくない形で現れることになる。キリスト教連合やその類の団体が、裸の公共の場に偏狭で不寛容な道徳的実践の衣をまとわせようとするのだ。原理主義者は、リベラル派が足を踏み入れるのを恐れる場所にずかずかと入り込んでくる。一方、こうした幻滅が世俗的な形をとることもある。公共問題の道徳的側面を扱う政策がなければ、公務員の個人的な悪行に注意が集中するようになる。政治論議はますます、スキャンダラスで、センセーショナルで、懺悔的なテーマで占められるようになる。それを伝えるのはタブロイド紙やトークショーであり、やがて大手メディアもそのあとを追うようになる。こうした傾向を生む責任のすべてが、現代的なリベラリズムの公共哲学にあるとは言えない。しかし、政治論議に関するリベラリズムのビジョンはあまりにも貧弱なため、民主的な生活の道徳的エネルギーを取り込むことができない。そこに生じる道徳的空白が、不寛容をはじめとする見当違いの道徳的実践を呼び込んでしまうのである。(p.49)


ここでの主張はサンデルが随所で繰り返しているものであり、彼の問題意識には非常に共感できる。原理主義者が跋扈する言論状況および政治家や公務員への道徳的非難だけが流通し、政策論議などが全くというほどなされない言論状況の出現。

アメリカのみならず、昨今の日本でも生じている問題である。たとえば、後段の部分については、90年代の高級官僚への非難から始まって次第に公務員一般にまで広がってきた「公務員バッシング」という形で現れ、ただでさえ機能不全に陥っている再分配をさらに低下させる方向への圧力を生じさせていることや、小沢一郎の政治資金の問題など、いわゆる「政治と金」の問題が言論空間を占領してしまい、本来議論すべき政策やその目的などについて議論ができないことなども昨今の日本の政治状況では問題だと考えているのだが、サンデルによれば、その原因は道徳を締め出す政治にあることになる。ある意味、彼の主張するような問題を討議していき、人々の心を惹きつけるものを提示できれば、こうした問題はかなり改善に向かうように思われ、参考になった。



同じように、失業は経済的な難題だけではなく、社会的な難題をも突きつけた。仕事がないと収入もないというだけではなく、市民としての共同生活を分かち合えないということが問題だった。「失業とは何もすることがないといことだ――それは、自分以外の人とのかかわりがないことを意味する。仕事がないこと、同胞市民の役に立たないことは、実のところラルフ・エスリンの小説の『見えない人間』になっているということだ」
 ケネディとリベラル主流派の意見の相違が最も明白だったのは、福祉の問題についてだった。ケネディが福祉を批判した根拠は、貧困層への連邦政府支出に反対していた保守派とは異なり、それが受給者の市民的能力を損なうというところにあった。……(中略)……。貧困の解決策は政府が支払う保証所得ではなく、「適正な賃金でのきちんとした雇用であり、コミュニティ、家族、国、また何より重要なのは自分自身に対し、こう言えるようにする雇用である。『私はこの国の建設に貢献している。私は偉大な公の事業に加わっている』と」。(p.103-104)


失業に対しては福祉の給付を行なえばよいというわけではなく、社会との繋がりや市民としての義務を果たしうる雇用を創出することの方が重要であり、単に給付ばかりを強調するよりも社会の活力も高まると思われる。


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