アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

プラトン 『国家 (下)』

 「それなら、算数や幾何をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところの、すべての予備教育に属する事柄は、彼らの少年時代にこれを課すようにしなければならない。ただし、それらを教えるにあたっては、けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけないけれども」
 「なぜでしょうか?」
 「ほかでもない」とぼくは言った、「自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態において学ぶというようなことは、あってはならないからだ。じじつ、これが身体の苦労なら、たとえ無理に強いられた苦労であっても、なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども、しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしないからね」
 「おっしゃるとおりです」と彼。
 「だから、よき友よ」とぼくは言った、「君は、子供たちを学習させながら育てるにあたって、けっして無理強いを加えることなく、むしろ自由に遊ばせるかたちをとらなければならない。またそうしたほうが、それぞれの子供の素質が何に向いているかを、よりよく見てとることができるだろう」(p.153-154)


プラトンの『国家』は正義と国制を論じているが、教育論もかなりの分量を割いて論じている。こうした強制せず遊ばせながら学ばせるべきだという議論は20世紀の教育理論でも度々目にしたし、直観的にも妥当性を持っているように思われる。ただし、その具体的な方法論や個々の子供に対してそれを適切に実践していくことは非常に難しい。この辺りは多くの親や教育者にとっての悩みの種のように思われる。

また、強制しないほうが素質をよりよく見てとれるというのは慧眼である。



僭主(独裁者)が生まれるときはいつも、そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、ほかのところからではないのだ(p.226)


現代にも通じる指摘。



 「したがって、思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち、彼らはどうやら、<下>へと運ばれてはまたふたたび<中>のところまで運ばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして、その領域を超え出て真実の<上>のほうを仰ぎ見たこともなければ、実際にそこまで運び上げられたこともなく、また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ。そして、そういったものを他人より少しでも多くかち取ろうとして、鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、いつまでも満たされることのない欲望のために、互いに殺し合うのだ。ほかでもない、いくら満たそうとしても、彼らはほんとうに存在するものによって自分を満たすのではないし、また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすのでもないのだから。」
 「申し分なく、ソクラテス」とグラウコンは言った、「あなたは神託を告げるような仕方で、大多数の人間の生き方を述べられましたね」
 「それならまた、必然的に、彼らがなじんでいるさまざまの快楽というのも、苦痛と混じり合った快楽にすぎず、真実の快楽の幻影であり、陰影によってまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものではないだろうか?(p.283-284)


思想や哲学などに関心を持たないだけでなく、善き生に対する関心も示さない人たちに対しては、プラトンのようにも言いたくなる時がある。特に家畜の比喩はうまい。

ただ、プラトンの主張そのものは価値観としてもやや主知主義な方向に偏っているし、また、知を愛する者であっても、苦痛と混じり合った快楽しか得られないというのは、普遍的な現象であると認めた方が妥当なように思われる。



 「では、そのような人もまた、最もすぐれた人間を支配している部分と同様の部分によって支配されるようになるためにこそ、その人はかの最もすぐれた人間、自己の内に神的な支配者をもっている人間の下僕とならなければならないのだと、われわれは主張するのではないかね?ただしわれわれはけっして、トラシュマコスが被支配者というものについて考えたように、その人が自分の損害のために、下僕となって支配されるべきだと考えるのではない。われわれは逆に、あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが――それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも――より善い(為になる)と考えるからなのだ。われわれのすべてが、同じものに導かれることによって、できるかぎり相似た親しい友となるためにね」
 「たしかにそれは、正しい主張です」と彼は答えた。
 「そして明らかに」とぼくは言った、「法律というものも、国民すべての味方として、そのような意図をもっているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち、われわれは同じこの意図のもとにこそ、子供たちの内部に――ちょうど国家の場合と同じように――ひとつの国制をうち立てるまでは、彼らを自由に放任することをしない。そして、彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより、同じような守護者と支配者を代わりに子供のなかに確立してやって、そのうえではじめて、放免して自由にしてやるのだ」(p.296-297)


こうしたある種の家父長制的な考え方であっても、そうした善とはどのようなものであるかを討議する場や機会を設けるという前提を付け加えれば、現代的な理論として復権する可能性が開けるのではないか。マイケル・サンデルなどの指摘を通じて次第にそうした方向に私の考えも向かいつつある。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/782-327d681b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)