アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『臨床するオートポイエーシス 体験的世界の変容と再生』

つまり認知を知ることではなく、一つの実践的行為だと考えるのである。……(中略)……。この方針設定は、認知を情報の探求ではなく、むしろ動作そのものの組織化の働きとして、動作と世界とのかかわりの組織化として考察することである。
 このとき認識主観とその対象という関係や、認識と対象との合致という真理基準が背後に退く。つまり哲学の中心を占めてきたこれらの課題は、実は部分問題であったことがわかる。この部分問題の中心に、認識論が位置する。認識論は、すでに認識が成り立っている場面で、その認識を可能にするさまざまな前提や条件を取り出すものである。(p.16)


認識論の位置づけとして適切と思われる。認識が立ち上がってくる前のところに真偽を判別するのとは別の働きがあることなど、本書では多くの有益な指摘がなされている。



だが単位体と統一体は異なる。渦巻きや入道雲のような散逸構造は単位体であるが、統一体ではない。連続的に動き続けていて、動きのかたちは維持されているが、何かがこのまとまりを支えているのではない。とすると単位体にとっての必要条件は境界を引くことであり、自分自身の動きや運動をつうじて、その動きの継続が同時に境界の形成になることである。ここで「境界」という主題が前景化していることがわかる。(p.115)


普段はあまり区別しないし、区別する必要も生じない区別だが、オートポイエーシスの機構を理解する際にはある程度重要な指摘と思われる。



システムとしての生存適合性を維持するためには、一般に刺激を受容しながらかつ作動しない無視の仕組みがあると予想される。無視とは、積極的で能動的な働きである。(p.156)


なるほど。



 理解可能性は、障害を生きるという事態に対して、実際、狭すぎるのである。障害者の多くは、知識としての病識はあるが、みずからの病態を感じ取る病覚が欠けていることが多い。だが病覚をもてば病態が改善する、というのでもない。自己の病理を自覚すれば、そのことが自己の再組織化につながるのではない。認知ということで、患者の病覚を促すような治療は、すでに筋違いの回路に入り込んでいる。自己認識は自己限定の一つであり、意識や思考回路をつうじた、自己の限定的な認定である。こうした認定を行うことが、自己の再組織化につながるとは考えにくい。それどころか意識や思考をつうじて、まさに自己の組織化を抑え込む可能性が高いのである。
 そうなると自己の再組織化を見込んだ患者自身の固有の世界を捉えなければならなくなる。しかもそれは、健常者と比較し、不足しているものを引き算するようにして到達される固有世界ではない。また本人が自己了解した世界が、本人の固有世界なのでもない。本人自身の意識からでは気づくことのできない自己の組織化には、意識とは別様の仕組みが必要となる。そこにシステムの詳細な機構が導入される。だがそのとき意識は、わずかの感触とともに、こうした自己の組織化の調整能力として関与することができる。このとき意識は、実践的調整能力となる。(p.169)


障害や病気に限らず、ある人ができること(特に身体動作に関するようなこと)を他の人に教える場合などにも、これと似たことが起こることがあるように思われる。

また、前段は問題を自覚することは問題解決につながらないことがある、むしろ悪化させることがあるということも含意しうると思われるが、これも私としてはなかなか重要な指摘と思える。自分では解決できた問題も、他の人に同じようにするよう勧めてもうまくいかないことが過去の個人的な経験として多々あったが、その仕組みがわかってきた気がするからである。



 認知神経リハビリテーションの第三の柱は、患者自身に繰り返し選択に直面させることである。選択は一つの行為である。選択に直面でき、選択の前にしばし経験を開き、そして何かを選び取ることは、選び取ったことを認知する以上に決定的である。選ぶことには、明確な理由があるわけではない。もとより選ぶ行為に先立って、あらかじめ選択の基準があたえられているのではない。にもかかわらず選択はつねに遂行される。選択それじたいが世界とかかわる認知行為なのである。(p.180-181)


なるほど。



だが意識の本性は、心の働きに隙間を開き、選択を可能にするための遅延機能だという点で、一つの落ち着きどころを迎えている。(p.181)


上の引用文とも関連するが、意識の本性は「遅延機能」だとする点は、本書で参考になった大きなポイントの一つである。

作動のモードを変えるときなどにはこれが役立つときがあるだろうし、逆に選択を含め、何らかの行為を続けることが必要なときは邪魔になることもあるのだろう。



 神経の再生を促すにあたって、選択行為の誘導はもっとも有効である。動かない肩に少し圧力をかけてみる。このとき快/不快の区別が生じる。これは野生とでも呼ぶべき基本的な感性であり、意志の働きによって選択する以前に、すでに快を受容し、不快を避けようとしている。この選択の働きによって、身体はみずからの原初的な区別を獲得する。つまり快だと感じるとき、そのことにすでに選択が働いている。(p.181-182)


快不快を感じる際にすら、すでに選択が働いているというのは、今まで全く気付かなかったことであり、新鮮だった。本書が語っている内容は基本的にこうした普段は気付きにくい領域について明らかにするものであり、発見に満ちている。



 重要な哲学や思想のほとんどは、学ぶだけでは足りていない。むしろそれらは忘れることによってはじめて身につく。忘れることによって、はじめて記憶に落ち、組織化のための素材となる。このことは哲学や思想を語り終えた途端に、それを否定することではない。否定に否定を重ね描くことではなく、ただ内的に習得するために忘れるのである。(p.210)


経験の可能性を拡張することに主眼を置いた河本らしい指摘である。これは意識の本性が遅延機能であるとする指摘とも通じている。意識されているものは作動を遅らせて自己に隙間を開くため、むしろ、意識されないところまで自分自身と一致させていかなければ組織化の素材とはならないということだろう。



哲学書を、それは何であるか、それは何を意味しているのかを知ろうとして読めば、哲学のドツボに陥り、経験は停滞する。哲学の問題の多くは、解決されないが展開可能性もない。(p.291)


経験を拡張すること、そのための展開可能性を得ること、それが重要だということ。この点が河本のオートポイエーシスの魅力だろう。



 ここでは古典と言われるものをほとんど読解、網羅し、自分自身のための哲学史を作り出している。それは確かなテキストの読みである。だがまさにそれをつうじて哲学を放棄するのである。ここでも自分自身に区切りをつけていくプロセスが確認できる。「みずから自身を繰り返さない」というデュシャンのモットーは、アラカワのモットーでもある。(p.294)


この辺の区切りをつけて自分自身を繰り返さずに次に進んでいくというのは河本の『飽きる力』での主張とも通じているのだろう。私自身もこのようにありたいものだと思う。


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