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アヴェスターにはこう書いている?
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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その1)
この講演文は1916年、すなわち第一次世界大戦の最中に、著名な哲学者として知られるバートランド・ラッセルにより発せられたものである。現代日本の状況とも非常に重なる指摘が多く、100年近く経った現在でも大変興味深く読むことができる。

その諸信念(※引用者注;侵略の衝動に付随した諸信念)の中でもまず筆頭にくるのは、自分自身が属している集団が多を圧して優れているという確信、つまりなんらかの意味で自分の集団が選民なんだという確信である。この確信が、次のように感じることを正当化してゆく。すなわち、真に重要なのは自分自身の集団の利害のみであり、世界の残りの部分は高等民族(自己の集団)の勝利もしくは救いのための、ただ単なる道具とみなしていい、という感情(的信念)である。現代の政治にあっては、この態度は帝国主義に具現している。(p.16、強調は引用者)



現在の日本における「美しい国」だとか「国家の品格」だとかという言葉は、こうした諸信念と同類のものである。こうした考え方を支持する人々に大変多く見られる「特定アジア」なるものへの蔑視とも、こうした言葉に表現されている感情は繋がっているのである。ここで注目すべきはこの確信は「侵略の衝動に付随」するものであることである。

防衛力を増強することをこうした人々の多くは主張するが、その「防衛」という大義名分は、容易に「侵略」の方向に転化するものであるということを彼らは自覚していないように思われる。実際、これらは「敵」との相対的な力関係によって決まるものでしかない。例えば、「防衛」の論理は、自分の側が「敵」側に対して圧倒的に優位にあると思われる場合には、上記の他者蔑視の発想と結びついて容易に侵略と支配のための論理となるのである。

ラッセルも次のように言う。

理論上は、ナショナリズムとは次のような教説である。つまり人々は共感と伝統とによって、「国民」と呼ばれる自然集団を形成するものだが、その国民のおのおのが、一つの中央政府の下に統一されているべきだ、という教説なのだ。主要な点でこの教説は、容認していいものである。しかしながら実際上は、その教説はもっと個人的な形をとってくる。つまり抑圧されたナショナリストは、次のように論じてゆく。「自分は共感と伝統とによって国民Aに属しているのだが、いま自分がその支配下にある政府なるものは、国民Bの掌中に握られている。このことは、ナショナリズムの一般原理の故にのみ不正義というべきではなく、国民Aが寛大で進歩的で文明をもつに反して、国民Bは抑圧的で後退的で野蛮であるが故に、不正義なのである。だからこそ、国民Aが繁栄に価する一方、国民Bは権威失墜に価するのだ」と。当然ながらB国家の住民たちは、個人的敵意や軽蔑をあびせられると、抽象的正義の要求には耳をかさなくなる。ところでほどなく国民Aが、戦争の過程でみずからの自由を獲得したとする。すると自由を達成したエネルギーと誇りとは、余勢をかってほとんどまちがいなく、外国を征服しようとする企てにのり出すか、さもなければより小さいどこかの国に、自由を与えることを拒むようになる

「何だって?われわれの国家の一部となっている国民Cは、かつてわれわれが国民Bに反抗したのと同じ権利を、われわれに対してもつというのか?そいつはバカげている。国民Cは豚のように野卑でそうぞうしい連中だ。まともな政府などつくれる能力もない。だから隣国のすべてに、脅威となったり厄介をかけたりすべきでないとすれば、国民Cは強力に統御してくれる者が必要なんだ。」このようにかつてイギリス人は、アイルランド国民について語った。またドイツ人やロシア人は、ポーランド国民についてそのように語ったし、ガリシアのポーランド人はルテニア国民についてそのように語り、オーストリア人は同じくマギャール国民[ハンガリー民族]についてそう語り、さらにそのマギャール人は、セルビアに同情をもつ南スラヴ人について同様に語ったし、当のセルビア人はマケドニアのブルガリア国民に関してそう語る、という始末だった。このようにして、理論上は反論の余地のないナショナリズムは、自然な運動によって抑圧と征服戦争とを導き出してゆく。(p.22-23)



もちろん、現在の研究では、「『国民』と呼ばれる自然集団」など存在せず、むしろ「国民」なるものがあるとしても、それは「自然集団」などではなく、むしろ人為的で観念的なものでしかないことが明らかにされている。(しかし、一般大衆のレベルまでは十分に浸透しておらず、素朴に「日本の伝統」や「日本人の国民性」などというものがあると信じているような人は、まだ多いように見える。)

その意味で、ナショナリズムに対しては、ラッセルのように「主要な点でこの教説は、容認していい」とは言えないし、「理論上は反論の余地」がないとも言えない。しかし、ナショナリストの思考のプロセス、感情の動き方については、ラッセルは非常によく捉えており、私も概ね異論はない。

まさに上で引いた「自分自身が属している集団が多を圧して優れているという確信」という自己中心的な信念が、防衛・抵抗から侵略・支配のイデオロギーの中心的な軸になっていることが見て取れる。

ラッセルの長い引用で言えば、国民Aに属するナショナリストは、国民Bに対しても、国民Cに対しても自らの属すると信じている集団の優位性を疑っておらず、それが抵抗と支配の心理的根拠となっているのである。

後段の部分など、現在の日本のネット上で見られるネットウヨ的発言にそっくりではないか?

例えば、彼らの場合、「国民Cは豚のように野卑でそうぞうしい連中だ。まともな政府などつくれる能力もない」といった考えを、「特定アジア」つまり中国、韓国、北朝鮮に対して向けているのである。しばしば彼らがこれらの国(特に中国と北朝鮮)の政治形態を取り上げて民主主義がなく人権が抑圧されているとして否定しようとする言説は、まさにラッセルが述べているものと同型である。

そして、ラッセルが指摘しているように、そうした発想が「自然な運動によって抑圧と征服戦争とを導き出してゆく」までは、ほんの一歩なのである。


最後に、デモクラシーに関して一言、私見を述べよう。

確かに私も、非民主的な政治体制は最善のものとは言えないと考える。しかし、政治体制は「国民性(「国民」のもつ性質・性格)」や、その国民の文化的水準のようなものによって決まるのではなく、グローバルな政治的権力の布置や経済的な活動の状況などによって規定される面が非常に強く、あまりに単純に否定するのは、短絡的で一面的な思考であると私は考えている。

例えば、あるあまり富裕でない地域において、複数の政治勢力が(暴力を伴おうが伴うまいが)争っている場合、それらの地域の利権に絡んで、外部の政治的および経済的な勢力が干渉する場合がある。そうした地域で議会制デモクラシーが機能することは大変難しい。現在のイラクを想定すればそれは理解できよう。

デモクラシーはそれなりに望ましい統治体制ではあるが、絶対的な普遍性を持ちうるシステムではない。政治体制について論じるときには、そうした事実を見据えながら分析しなければならないのだが、上記のような「特定アジア」否定の言説(や、ブッシュがイラク戦争の正当化のためにも使用した「中東民主化」言説)は、この事実を見のがしているのである。
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