アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』

 神経が自己組織システムであるかぎり、自己形成の回路に入る分岐点がある。治療者にとっては、その分岐点(クリティカル・ポイント)以降、治療が一挙に進展する。……(中略)……。「クリティカル」のもともとの語は、ギリシャ語の分利(クリーゼ)に由来し、熱病で回復過程に入るか、そのまま悪化して死んでしまうかの分かれ目を意味する。自己組織化の系列に、何度か不連続性が入り、みずからの前史が消滅し、階層関係が消滅して、それぞれの形成段階で固有の自由度を獲得すると、オートポイエーシスになる。(p.240)


分岐による質的変化というのは、自己組織化やオートポイエーシスが現象を説明する際に持つ利点の一つであるように思われる。もちろん、行為によって自己を形成していくためにも、重要なポイントである。



認知の基本性格は、ものごとを二つに分けることであり、区分の動きはおのずと進行し、ひとたび開始されれば、区分されたもののなかに、何度もより詳細な区分が進行する。一般に区別の働きは、伝統的に「差異化」と呼ばれてきたものである。だが差異化よりも、デジタル化の効果の方が、認知の進行にとって影響が大きいと予想される。(p.241)


認知に頼りすぎると何でも二分法で物事を区分けしようとしてしまうことがあるが、そこからは零れ落ちていくものが多くある。この点をはっきりと認識しているだけでも、多少の抑制効果はあるように思う。



哲学がしばしば陥ることであるが、基礎づけという構想のもとにより基礎的だと思える領域を指定すれば、それで何かを解明したことになっていると思い込んでいるのである。……(中略)……。哲学による基礎づけは、とりあえず根拠関係からの順序を決めただけであって、枠としての見通しをあたえただけである。内在的生は、基本的に生成関係にかかわるはずである。だが生成関係での事態の解明は、基礎づけ関係とは本来なんの関連もない。というのも、どのように基礎づけ関係を明示しようとも、必要とされているのは、形成運動を行なう回路を現実に探り当てることであって、根拠からの配置で事態を説明することではないからである。(p.256-257)


こうした行為者と観察者の相違やその関係は、河本のオートポイエーシスの構想から学んだことのうちでも、私の中では大きなポイントになっている。



行為のさなかで知覚は、いまだないものまでも捉えるのだから、知覚総体の働きは、行為のさなかでの予期である。予期は、行為の継続に欠くことができず、不断の手がかりをあたえる。予期能力を形成することが知覚の形成であり、この場合の知覚は、対象の本性を知ることではない。知覚に相当するドイツ語はwahrnehmenであり、原義は「真」(wahr)を「捉える」(nehmen)からきている。直観は、直接事象に届き、しかも感覚的素材を超えて直接意味や本質やイデア性を捉えるものである。実は、知覚こそ極端な働きをしており、知覚こそ問題の焦点であり、混乱のみなもとなのである。直観で本質に到達することは、人間のもっとも優れた能力の一つであり、ギリシャ、中世、ルネッサンスをつうじてつねに知の中心的な働きであり続けた。ところがカントが、哲学の基本を論証におき、論証によって証明できないものを、論証が矛盾を導くという誤謬推理をつうじて、哲学の範囲から追い出してしまった。この追い出された直観知(高度な場合は、知的直観)を再度現象学が回復することになった。現象学が世界や無限なものへの解明を進めようとした作業は、実は直観で無限性を捉えるルネッサンス前期のクザーヌスの仕事につながるようなものであった。……(中略)……。実践的行為の予期として知覚は働いており、行為の継続の支えになっているかどうかが焦点である。(p.258-259)


対象の本性を知ることは、知覚ではなく、認知によるものであるとし、知覚はより行為の調整に深くかかわっているが、真偽などを判別する能力とは異なっているとする点は本書で大いに参考になった点であり、また、本書の主張にとっても重要なポイントであると思われる。

なお、フッサールやハイデガーらはそれほどクザーヌスへの関心が高かったとは思えないが、同時代の実存哲学を標榜していたヤスパースはクザーヌスに関心を払っており、その時代のドイツの思想的状況はクザーヌスの思想が親近感を持って捉えられるような側面を持っていたと言えるかもしれない。



みずからに選択可能性を感じ取ること、それこそ原初の自由なのである。(p.274-275)


自由という難しい問題に対して、手がかりを与えてくれそうな指摘。



だが二者択一とは異なる選択をつくりだそうと試みることもできれば、選択にさいして将来の展開見込みを予想して選ぶこともある。これらは感情を基準にすることとは異なる。感情の基本は、好き嫌いに典型的なように、二分法になることである。(p.284)


この感情による二分法は、政治の場においても作用している。小泉政権の時代に「抵抗勢力」などの用語を用いて二分法的な感情を喚起させることによる人気取りは多用されたし、ナショナリズムなども感情が二分法になることを基本としているため、半ば普遍的に流布することができたと考えられる。



感情は、変化の一つの状態であり、変化として感じ取ることはでき、変化の度合いを感知し、判別することはできるが、変化する当のものや、あらかじめ定まった変化の単位もない。(p.314)


本書の「感情」に関する議論も大変興味深いものが多かった。感情には単位がないという指摘は特に興味深く、それと対比的にオートポイエーシスは単位を持つという指摘は参考になった。



 感情は発明されて、新たな形をとると、表現手段も受容され、継承される。博愛のような感情は、自然発生的には成立しにくい。というのも博愛は、自分の生存を危うくする可能性につねにつきまとわれているからである。博愛は、道徳の大天才が、ある時期に発明したのである。ひとたび発明されると、なんとなく理解され継承される。だが博愛の感じ取りには、個人差が大きいのではないかとも予想される。博愛には、マゾヒズムや自虐性がともなっているとも感じられる。あるいは博愛には、みずからを際限なく超えていく超克感のようなものもある。あるいは限りなく自分を超え出たものに触れていく崇高さもある。イエスは、キリスト教の開祖というより、おそらく感情の大発明家なのである。
 ……(中略)……。
 他方、廃れていく感情の形もある。憤り、義憤のような感情は、現代では多くの人にうまく感じ取れなくなっているのではないかと思われる。……(中略)……。感情は、個々人にとって使われなければ消滅してしまう。そのためある年齢を過ぎると、努力してでも感情を動かさないと、その感情のモードが消えてしまう。(p.320-321)


感情というのは、単に自然に備わっているだけのものではない。また、個人的にも社会的にも現われ方が変化する。精神的に豊かな生活を送るには、ある程度年齢をとった場合には、できるだけ感情に多様な変化がある生活をするよう心掛けたほうが良さそうである。



感情では快-不快のように肯定形と否定形が対極的に成立する。ところが感覚には、こうした否定性を考えることが難しい。色と「不色」、形と「不形」というように否定形を並置したとき、不色や不形に、不快のような実質的な経験を対応させることができない。(p.322)


感覚と感情の相違でもあり、感情を特徴づける要素には、この否定性がある。



実は、哲学や経験科学のなかには、語られたとたんに、それっきり思考停止になるようないくつもの用語がある。重力や光や波動や熱のような基本的な用語でさえ、部分的にこうした性格をもち、とりわけ熱の内実はさっぱりわからない。また理論構想そのものの用語のなかでも、自然選択、適応、アフォーダンス、オートポイエーシスというような語は、語の印象が鮮明で、そのなかになにかが含まれている印象を受ける。これらの語を振り回すだけでも、すでに思考停止回路に入っているのである。少なくとも理論構想用語に対しては、ほんとうに一つの構想なのか、複数のものが混ざり合っているのではないかと疑ってみることが必要である。このような謎を含んだ語は当初、時代の局面を変えるほどの発見力をもっていたと思われる。ところがそこから展開していく回路が見いだせなければ、最初の時期を過ぎると思考を制約する思考停止概念となる。(p.367-368)


適切な指摘。



 ここには多くの人に生じた典型的な誤解がある。オートポイエーシスは、立論の立場でも、記述の視点でもない。テキストを読むさいに、自分の経験を動かすような読みが必要であり、何であるかを対象知として理解するだけでは足りないのである。たとえば「内部も外部もない」というのは、オートポイエーシスの特徴の一つであるが、これはどういう経験の場面を言い当てているのかを、経験を動かして体験しなければならない。そうでなければただ意味としてわかろうとしていることにしかならない。ことがらを経験できないものは、情報として配置することしかできない。この場面で行為と知とがまったく疎遠になり、いっさいの経験の動きのない、わかった風な言葉だけが夥しく発話されるだけになる。体験的行為と結びついていない言葉は、ただちにたんなる立場へと転化する。そこから立場や視点としての知識が、どのような理由があっても釣り合わないほど優先される。オートポイエーシス的な本の読みは、本来、経験を形成するものである。読んで理解して、ただちに配置できるような知識しか得られないのであれば、その本は二度読む必要はない。およそ知識しか得られない本は、ただちに読み捨ててよく、みずからの経験を形成してくれるような本だけを丹念に読めばいいのである。ここでオートポイエーシスが想定している人間像が明確になる。この行為知のモデルケースは職人であり、思想家や評論家や、ましてイデオローグではない。日々こつこつとみずからに希望が到来するように、制作を行ない続ける者たちであり、制作行為のなかで毎日工夫しつづける者たちである。こうした職人的な基層の作業は、ダ・ヴィンチにもゲーテにも、そしてフッサールにも含まれている。(p.382-383)


河本のオートポイエーシスの理論構想における行為への志向について、読書という場面について明確に述べられている。

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