アヴェスターにはこう書いている?
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初田亨 『繁華街の近代 都市・東京の消費空間』

 繁華街から日本の近代の都市をみた時、近世の都市と大きく異なる点は、不揃いな街並みがつくられていった点と、陳列販売の形式をもった店舗の出現にあると考えている。(p.10)


このあたりは本書との基本的なパースペクティブが示されている一文だと思われる。

土地に縛り付けられて生活していた近世以前の生活と比べ、移動の自由度が高まったことにより、商店は見知らぬ不特定多数の人々を客として扱う方が有利となった。それにより、販売方式は陳列販売方式へと移行し、街歩きの楽しみが発見されていき、その中で個性的で自己主張のある建物を建てることで建物自体が広告となるため、不揃いな街並みが形成されることとなった。

経済的に中産層的な市民が増えることにより、この傾向は強まり、一度この方向に消費がシフトしていくと、不可逆的な変化が生じた。



 建設当時、あまり人気のなかった銀座も、明治10年代後半頃から活気がみられるようになっていった。この頃の銀座での生活をみていくと同時に、当時東京で最も繁華を誇っていた隣の日本橋地区と銀座を比較することで、銀座の特性をみている。銀座には、洋物、舶来物など、新しい商品を取り扱う商店や、商品を陳列して販売する新しい形式をもつ商店・事業所が多くあったのに対して、日本橋地区には、問屋であることを誇示するなど、江戸時代から続いた価値観をそのまま踏襲した商店・事業所が多くみられることを明らかにしている。また、銀座の道路には歩道があり、露店・夜店を出しやすい形式をもっていた点の重要性も指摘している。(p.12)


街の個性という観点からも興味深いし、個性的な役割を持つ街が地理的に分布しているという観点からも興味深い。



 1881年(明治14)の防火令を契機にして、東京では土蔵造りの街並みが誕生している。(p.12)


本書の序盤ではこの点が非常に強調されており、興味深かった。土蔵造りの街並みはその後日本各地へと広まった。ただ、小樽の歴史を調べた際にやや特殊なのは小樽では土蔵造りではなく木骨石造がこれと同じ役割を果たすものとして建てられた点に個性があり、土蔵造り以外の建築で代替した地域もあったということは銘記してよいと思う。また、土蔵造りと木骨石造以外でも同様の防火機能のために建てられたものがないかという点も興味を引かれる。(純粋な石造建築は群としてはなかったのではないか?どこかにあったのだろうか?)



特に銀座は、1870年(明治3)から工事を始めていた新橋・横浜間の鉄道が完成した暁には、鉄道を通して横浜と築地居留地、さらには横浜の開港場を通して外国とも結びつく地にあたり、政府としては、ぜひとも立派な街衢につくりかえたい場所であった(図1)。
 ……(中略)……。
 幕末から明治初期にかけての銀座は、瓦葺の建物さえ少ない小商人や職人の町であった。銀座がこのようなみすぼらしい町であればあるほど、政府は、新橋・横浜間の鉄道が開通することにより、外国人のより多く通るようになるこの銀座を、外国の町のような街並みにつくり変えることの必要性を強く感じたであろうことは察しがつく。(p.22-23)


銀座煉瓦街が銀座に建設された理由の一つは、こうした外国人向けの景観形成があったというのは興味深い。また、そこに鉄道開設が絡んでいるところも興味を引かれる。



 後に述べるように、東京では明治末期に陳列販売方式の店舗が並ぶ近代的な街並みが誕生するが、この明治中期の防火令の成功で、東京から大火がなくなり、商品を陳列して販売する、近代的な街並みが生まれる下地がつくられたともいえる。大火の多い時には、商店が店先に商品を並べておくことは大変危険なことで、火災によってすべての財産を失ってしまう危険性もあった。商人にとって商品は重要な財産で、火災の多い時代には、商品を安全な土蔵などにしまっておく必要があったが、都市から大火がなくなり、火災の数も減った時、現在一般にみられるように、商店が店先に商品を並べ、陳列販売することも可能になったのである。(p.53)


興味深い指摘。確かに、明治の前半頃までは日本の都市ではかなり多くの大火が起きているようだ。札幌、函館、小樽といった都市の歴史を見たときにも、いずれも大火とそれへの対策としての火防線などについて触れられていた。



 明治中期から後期にかけて、各地に土蔵造りの建物が建設されていたらしい点が明らかになったが、同じ頃、土蔵造りの建物を数多く建設していたものに銀行がある。土蔵造りの建物を建設した銀行の例で、建設年代の明らかな例をあげると表1のようになる。
 土蔵造りの銀行で興味深いのは、土蔵という伝統的な外観をもっていながら、建物の内部が洋風に作られている点である。(p.74)


土蔵造りではないが、これに近そうな実例として、私が見たことがあるものの中では、旧第百十三国立銀行小樽支店(明治26年、木骨石造)が想起された。ただ、この建物の中には入ったことがないので、どのようになっているのか、興味を引かれる。



 活動写真が一躍活気づいてきたのは、日露戦争の実況を上映するようになってからである。(p.136)


メディアの歴史として興味深い。



 人々が銀ブラを楽しみ始めた大正時代は、芸者だけでなく普通の女性まで化粧をするようになった時代でもある。資生堂に化粧品部が設けられたのは、1916年(大正5)のことである。同時に資生堂では意匠部を発足させ、以後、容器、箱、包装紙、ポスターや社名のレタリングに至るまで、アール・ヌーヴォー風の意匠を展開している。(p.206)


一般女性が化粧をするようになったのがわずか100年ほど前というのは意外と最近のことなのだと思い、少し驚いた。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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