アヴェスターにはこう書いている?
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伏見憲明 『男子のための恋愛検定』

「恋」なんて一生のうちいつでもできるが、思春期にすべきことはそのときにやらなければ意味がない。(p.15)


本書の基本的なスタンスはこのあたりに表れているように思う。

思春期の中学生や高校生向けに恋愛という問題が、一般に流布しているようなバラ色のものではなく、至上の価値を持つわけでもないということを批判的に考えさせ、制御困難な恋愛感情に伴う失敗を避けることができる知恵を持つように勧めるというのが、本書のスタンスであるように思われる。

思春期の子供が本書を手に取ることはあまり多くないように思うが、思春期やそのすぐ手前の子供を持つ親が読むとちょうどいい内容の良書である。



 しかし、「恋」以外にも尊い感情はある。誰か困っている人のために検診する気持ちは美しいし、国や社会のために尽くそうという志もすばらしい。親に孝行することも、友だちといっしょに何かを作り上げていこうとする意志も、「恋」に負けずとも劣らない価値がある。あるいは、大自然の壮大さや神秘に心を打たれることだって、まったくもって豊かな情感である。
 にもかかわらず、「恋」は、他の何よりも憧憬されるし、人々によって求められてもいる。流行りの歌のほとんどは「恋」の歌だし、ドラマや映画でも「恋愛」が出てこない作品はめずらしい。雑誌を見ても、「恋愛」はしばしば特集されるし、デートスポットの記事は欠かせない。そうした「恋愛、恋愛」の大合唱の声に耳を傾けていると、誰もが「恋愛」をしなくてはいけないような気分になってくる。「恋人」がいなければ自分が劣った存在のようにも思えてくる。ましてや、「恋心」自体がピンとこない人だったら、そんな自分はふつうじゃないかもしれない……と疑問を抱くかもしれない。
 けれども、そうした「恋愛」への熱狂は、普遍的な現象ではない。(p.20-21)


現代社会では様々なメディアを通して「恋愛」が消費されている。極めて強い感情を引き起こすものであるために強力な商品として流通している。そのための宣伝は、恋愛の価値が至高のものであるかのように装われ、特に若い世代に向けて発信される。それに対して批判的に捉え返すだけの力を持たない人は、特に教育水準が低ければ低いほど、その恋愛至上主義のイデオロギーにそのまま染まりやすい傾向がある。

そのような価値観に駆動される人が多く存在することによって、様々な商品(奢侈品)が消費される。恋愛を題材とした物語(ドラマであれ、マンガであれ、映画であれ、何であれ)やカップル向けのデートスポットを紹介する記事(テレビであれ、雑誌であれ、何であれ)を見ることによって、その中に登場する「おしゃれ」なアイテムが欲しくなり(場所に行きたくなり)、それらの宣伝媒体としての効果を持つ。(これに近いことはゾムバルトがすでに書いていたように思う。)

こうした要素に対して批判的なメディアや論調はほとんどないから、本書のような恋愛論は貴重である。



「恋」する者は、自分と同程度、相手も自分のことを気にかけていると思い込みやすいのである。
 だから、それがさらにマイナスの方向に展開すれば、昨今の若者の犯罪のように、送ったメールに返事が来ないというだけで逆恨みして、暴力沙汰や殺人事件を起こす事態も想定できなくはない。相手にしてみたら、忘れていただけかもしれなくても、返事をもらえないキミは、こんなに好きなのにどうして返信くらいよこさないのか、と不信を募らせ、殺意まで抱くわけだ。こちらがこれだけ思っているのだから、彼女もそれに応えて当然、という都合のよい理屈がそこにある。それは自分が愛されたい、という願望の強い表れだろう。
 ……(中略)……。ある意味で、「恋」は相手など関係ない、自分自身の欲望なのだ。(p.38-39)


「恋」という感情は自己中心的な思いに過ぎない。「相手を思いやることを含む行為」としての「愛」と理念型的に区別して考えると整理しやすいというのが、私見である。



 テレビドラマのパターンは、ここ数十年の「恋愛ブーム」に乗っているだけに、親たちよりも「恋」する者たちの側を正義とする傾向が強い。けれど、それは「恋愛」をひいきしているかもしれない。「恋」を賛美しすぎているかもしれない。第二次大戦後、「恋愛」は古い因習から人々を解放するものとして、もてはやされた。以来、愛によって自由のない社会や頭のかたい家族と闘う、というテーマの映画や小説作品がいっぱい作られた。自由な「恋」によって、民主的で、すばらしい未来がもたらされると信じられたのだ。でも、やはり、なんでもかんでも「恋」する者たちに味方するのは、いきすぎた「恋愛至上主義」だろう。(p.42)


現代のメディアが持つ偏りを的確に指摘している。こうした批判的な論調がもう少し社会の表に出てこればよいと思うのだが。



嫌われることを恐れすぎるとかえって嫌われる、という法則が『恋愛』にはあるそういうとき、キミは自分が傷つかないことを第一に考えているのではないか。傷つけたらどうしよう、とか、気に入られなかったらどうしよう、とか思っているだけで、それは、相手と自分が異なる存在だということを前提にして、共感をふくらませていくこととは違う。共感というのは、違う部分を認め合いながら、歩み寄れる部分をつなげていく作業だ」。(p.48)


こうした自己中心性を相対化し、他者と私との共感関係を構築していくこと、それを通して人間として成長していくことが、「恋愛」の実践的な意義であることを本書は説いていると思う。ただ、こうした関係を築くことによって成長していくだけであれば「恋愛」でなくてもよいということを考えると、やはり必ず必要なものであるとは言えないのだろう、とも思う。子供を育てるということを通しての成長もあるだろうから、そこに至るための準備段階の訓練という位置づけで捉えてもよいのかもしれない。

(ただ、思春期の若者向けの内容としては、そこまで述べてもピンとこないだろうから、本書が記載する内容まででとどめておいてよいとは思う。また、恋愛なしでも子供は産まれることがあるが、そうして産まれた子供は人間として十分な成長を遂げていない親に育てられる点で不幸であると言いうることが多いし、私自身は原則論としてはそのように捉えている。)



「独占欲」と嫉妬は裏腹の関係になっている。「独占欲」があるから嫉妬は生まれるし、嫉妬がない「独占欲」はありえない。
「恋人」に送ったメールになかなか返信が来ないとイライラしたり、ムカついたりするのは、もしかしたら自分よりも大事な人ができたのではないか、とか、いまその人といっしょに過ごしているのではないか、と不安になるからだ。「恋愛」はつねに、他人がそこに割り込むのではないかという不安につきまとわれている。
 そして一方的に「独占欲」を募らせていくと、それは支配欲にもなりかねない。(p.57)


嫉妬するという感情やそれに基づく行為が醜いとすれば、それは独占欲と表裏一体の関係にあるからだろう。そこには所有欲に転化する要素もあると思われ、相手をモノとして扱うことにも繋がり、ここで支配欲へと転化する道も開かれるように思われる。



これまであげてきた「好感」「ときめき」「独占欲」「性欲」「憧れ」「尊敬」「共感」「承認」……のどれが入っていれば「恋」になるのか、どれとどれが欠如すると「恋」ではなくなってしまうのか。あるいは、どれかの組み合わせによって何か化学変化のような現象が生じ、そこで生み出された成分Xが、「恋」の素になるのか。どちらにせよ、「恋」にいくつもの感情が絡み合っていることは間違いない。そして、おおよそ「恋」の基本成分はこれまでに述べたものたちだろうと、ぼくは思う。(p.67)


この「恋の基本成分」という考え方は、本書の議論の中でもなかなか面白いところだった。本書のように成分を割合で示して分析するというの現実には難しいだろうが、それでも「恋」の中身、「恋」に求めているものは人によって異なるということを説明するには割と具体的にイメージしやすい説明方法だと思う。それ以外のことを説明する際にも、こうした手法は応用できるかもしれない。



つき合うとは、互いの求めるところを持ち寄り、調整し、納得し合う行為なのだ。(p.72)


こうした調整を伴う交わりによって各自が成長していくプロセスというのが、恋愛関係の醍醐味の一つであるように思われる。まぁ、恋愛に限らないというのが本来の私の見解だが。



彼氏に対する女子の不満で、「好きって言葉でいってくれない」というのがよくある。女子の文化の中では、そうした愛情確認の作業は、「恋愛」というゲームをロマンティックに演出する行為として重要だけど、男子にしてみたら、そんなことを口にするのは恥ずかしいし、めんどうだと感じるものも少なくない。どちらが正しいわけではない。それは何が快になるのかの感じ方の違いだから。けれども、なんらかの形で歩み寄らないかぎり、その文化の溝は埋まらない。自分らしくいるだけでは、つき合いは成立しないのだ(p.73)


長期間パートナーがいない人のほとんどすべてがこのように「自分らしくいるだけ」の状態に甘んじているように思われる。それでも成長(生に伴う変化)があるならば、良いとは思う。恋愛のパートナーではなくても他の社会的な関係の中でも成長は可能なはずであるから。

ただ、この成長が欠けているならば、その「自分らしくいる」状態は自己実現的な状態ではなく、むしろ「自分の殻に閉じこもっている」防衛的な状態ではないかと自問する必要はあるように思われる。



「恋愛」の相手を選ぶときには、人はさまざまな面を総合して結論づけている。思いの純粋さだけを基準にしているのが正しくて、その他のことを考慮するのは打算だ、と非難するのは、人間というものを単純にとらえすぎているだろう。(p.105)


「恋愛至上主義」が流布される中では、その至上性を浸透させるために、こうした「純粋さ」を称揚することになる。だから、恋愛を相対化できていない人ほど、この「純粋さ」にこだわる傾向があるように思われる。

まず、「純粋さ」というのは、ある意味で美しさを感じさせるものではあるが、「純粋さ」は常に「排他性」を伴うものであるから、必ずしも美しいわけではないと私は評価している。

また、現実の世界には「純粋」なものは、ほとんど存在せず、その多くは操作によって作られるか、想像によって想定されるだけである。「純粋な感情」も同じで、現実の世界には(ほとんど?)存在せず、操作によって作られるか、想像によって想定されるだけである。したがって、それを基準にして現実を非難することは、現実にはありえない基準によって裁いていることになり、著者が言うように「単純に捉えすぎている」ということになる。


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