アヴェスターにはこう書いている?
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桑原真人、川上淳 『北海道の歴史がわかる本 石器時代から近・現代までイッキ読み!』

 江戸時代の諸藩は、コメの生産量を示す石高を幕府によって割り振られ、数万石の大名として幕藩体制の一翼を担っていた。しかし、近世以前の北海道ではコメを栽培していなかったため、成立当初の松前藩は、蝦夷地のアイヌとの交易による利益で藩財政を支えた。それが、やがて交易から商人による漁業経営へと移行していく。この松前藩や蝦夷地だけに特有な交易や漁業経営の方法が、後述する商場知行制と場所請負制度の2つの制度なのである。
 当時の松前藩は、徳川家康の黒印状によって、蝦夷地でのアイヌとの交易独占権を承認されていた。……(中略)……。また、松前城下付近では、アイヌと和人が雑居する状態だったと考えられており、松前藩の藩域もまだ明確にはなっていなかった。
 しかし、幕府巡見使が1633(寛永10)年に松前を初めて監視し、松前藩は藩の領域を明確にする必要にせまられる。そこで、和人地と蝦夷地を分けることになり、和人地には和人を、蝦夷地にはアイヌを分離する政策に転じた。こうした過程で作り出されたのが、「商場知行制」だと考えられている。
 商場知行制とは、松前藩主が上級家臣に一定地域を知行(他藩では藩主から家臣へ与えられた所領などを言うが、松前藩では商場での交易権)として与え、そこで上がったアイヌ交易の収益を家臣の収入とする仕組みのことだ。(p.87-88)


江戸時代の北海道の政治や経済を見ていくにあたって、この2つの制度についての知識を持っておくことは非常に重要である。



 幕府の宗教統制により、江戸時代はキリスト教禁令とともに、新しい寺の建立も禁止されていた。その幕府の手により1804(文化元)年、蝦夷地に設置されたのが、前出の厚岸町「国泰寺」と、様似町「等澍院」、伊達市有珠「善光寺」の3寺院である。檀家のいない、幕府より提供されるコメや資金などで運営する官寺(幕府の監督下におかれ、経済的な保障を受けた寺院)だったことから、「蝦夷三官寺」と総称された。しかし、和人がほとんど住んでいない蝦夷地に、自ら発した禁令を破ってまでして、幕府はなぜ寺院を建立したのだろうか。「ロシアへの対抗策だった幕府による蝦夷地直轄化」(98ページ)でも述べたように、当時の幕府は蝦夷地におけるロシアの接近やアイヌの蜂起に危機感を持っていた。北千島にはロシアによってキリスト教が広められていたため、幕府は蝦夷地に仏教を浸透させようと考えたのだ。(p.154-155)


宗教と関連する現象は政治との関係で捉えると、非常に合理的に理解することが可能な場合が多い。(なぜならば、宗教現象は政治現象だからである。)これもその事例である。



 樺戸集治監は食糧品や外役用の衣類、工具など多くの物資を購入したので、その購買力をあてにして、石狩川沿いの監獄波止場と集治監を結ぶ道路沿いに市街地が発達した。(p.223)


現在の月形町の市街地がこの地区にあたる。刑務所の需要が供給を呼び、労働が可能になると人が集まり、人が集まるとさらに需要が生まれるという循環が見て取れる。



 岩村がこのような開拓政策の転換を明らかにしたとき、そのあり方を巡って大きくふたつの考え方があった。ひとつは移民政策において、屯田兵のような保護移民制度の強化を求める立場であり、これに対立するのが、保護政策の間接化と資本への自由開放という立場である。そして、この問題にリンクする開拓の方向も、近世以来の主要産業である漁業の発展によって沿岸開発を目指そうとする意見と、開拓使によって行われてきた移民の移植を進め、内陸の農業開発を目指そうとする意見が交差していた(『新北海道史第4巻通説3)。(p.231)


北海道の開発政策を見ていくにあたって、「漁業と結びついた沿岸の開発」と「農業と結びついた内陸の開発」との対比は参考になる。実際には両方とも必要ということに落ち着くと思われる。



 ただし、ここで注意しておきたいのは、道民に対して与えられた様々な「恩典」こそ、道民が政治上の無権利状態に置かれていた裏返しであることだ。
 1889(明治22)年2月に「大日本帝国憲法」が発布され、翌年11月には第一議会が開会するが、北海道と沖縄県からは衆議院議員を送り込めず、いわば明治憲法体制外の地域であった。
 北海道から衆議院議員が選出されたのは1902(明治35)年のことである。地域住民の政治的権利において、北海道は内地府県と約10年の格差があった。(p.241)



現在ではちょっと想像できないが、わずか100年ほど前にはこうした状態だった。


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