アヴェスターにはこう書いている?
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加藤祐三 編 『アジアの都市と建築 29 exotic asian cities』

 ついで第二の「植民地都市」について見ると、日本には、この種の都市は存在しない。日本最初の条約である日米和親条約[1854年にペリーと調印]が「敗戦条約」ではなく戦争を伴わない「交渉条約」であったから、「懲罰」としての領土割譲・植民地が発生しなかったためである。この点は、近代日本の出発点を考えるとき、たいへん重要である。(p.17)


明治維新の前夜、江戸幕府は無能なものとして描かれることが多いが、この観点からみると外交的にはかなりうまくやった側面を持っていると評価できるとされる。この見方には妥当性があると思われる。



上海の初期投資は、大手の貿易商を主体とした外国人であったのにたいして、横浜では幕府が自らそれに当ったため、外国人居留民の発言を制することができた。また最初の条約が「交渉条約」であったことは、条約改正による居留地撤廃[1899年]を可能に導いた。(p.17-18)


横浜や神戸などには外国人居留地があったが、これは上海などの租界とは性格を異にしているわけだ。この指摘は重要である。



三峡、大渓とも18世紀末より開拓され、船運を利用し、山地物産と台北から来る物資の集散地として大いに繁栄していた。しかし、19世紀末から今世紀初めにかけて、河床埋積により、高校が不能となり始めた。山中であったため陸路からもはずれ、栄華をきわめた当時の街並みが今もほとんど残っている。街屋の表掛りは一見洋風に見えるが、そこに付けられた装飾は中国伝統の霊獣や桃、牡丹、柘榴等福禄寿を象徴する彫り物である。(p.144)


台湾北部の淡水川流域の諸都市には老街と呼ばれる古い街並みが残っているが、その歴史とそれらが残った理由の一端。



龍山寺は泉州出身商人の貿易の守護神としも見られており、航海や荷貨の陸上輸送の安全を保護するため、武力を持っていた。そして、萬華に運び込まれる荷貨のすべては、龍山寺に5パーセントの税を納めなければならなかった。(p.144-145)


宗教的なものは信仰の側面だけから考察しても、その性格はわからない。社会の中での政治的および経済的な役割などを見ることで、それをより適切に位置付けることができる。龍山寺もそのよい実例のようである。



 明治45年[1912年]は、台北市にとって生まれかわりの年でもあった。この年の八月に前年に続いて大水害が発生し、前述のように商店街の大改造等、台北市の近代都市への変身の大転機となったからだ。さらに大正2年からは、西門外に新開発が始まっている。それまで、台北には市街と言えば、萬華、大稲埕、旧城内の三ヵ所があり、この三つはほぼ三角形の頂点の位置関係にあり、その中央部分は未開の湿地になっていた。ここは市内で一番低い部分であったため、年々水害を受け、その周辺では疫病も発生した。この年の水害は最も大きいもので、水害後、ここを埋め立て、都市として開発しようという案は大いに歓迎を受けた。それはまた、新開地が出現するばかりでなく、三つの既存街を一体化する上でも大きな意味があった。それまでの城外西部地区の萬華と大稲埕は、中国人の天下で、日本人の割り込む余地は全くなかった。西門外の埋立てによって誕生した新開地は、日本人の資本が進出可能となり、商業と娯楽の中心として建設が始められた。市場や百貨店、また劇場、映画館、料理店等が次々と建てられていった。その頃はちょうど、淡水河の船の出入りが困難となり始め、萬華、大稲埕とも凋落の兆しを見せ始めていた時期で、このため、台北市の商業の中心は次第に西門周辺に移り始めていた。地区の名称も西門町と改められ、ついには台北市随一の繁華街に成長してゆく。今でも映画館は台湾一の密集地で、百貨店も多くある。(p.149-150)


20世紀初頭の台北、特に西門町周辺の歴史。コンパクトにまとまっているのがよい。



 クリミア戦争[1853~56]の敗北によって黒海の出口を英仏に抑えられたロシアにとって、極東こそが世界への出口となり、ペテルブルグの皇帝は、一万キロメートルも離れたウラジオストクに熱い眼差しを送る。ペテルブルグからモスクワを経てチェリアビンスクまで延びている鉄道を一挙にウラジオストクまで延ばし、極東の資源をヨーロッパに、ヨーロッパの製品を極東に運ぶ――これぞまさしく大英帝国に対抗する起死回生の一策――皇帝も資本家もそんな願いを抱いての鉄道建設であった。(p.286)


当時のロシアの状況について参考になる認識。

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