アヴェスターにはこう書いている?
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西澤泰彦 『日本植民地建築論』(その2)

 新築された関東州庁舎(図1-11)は、鉄筋コンクリート造地上四階建で、延床面積約2,655坪(約8,763平方メートル)という建物であった。正面中央に車寄せのついた正面玄関をとる左右対称の正面のつくり方は、当時の日本国内のみならず日本支配地における官衙建築の典型的な外観と共通するが、多くの官衙建築が、バロック建築の正面の作り方に依拠して、正面中央だけでなく左右両端にも出入口を設け、ペディメントを付したり、手前に張り出すなどして両端部分も強調される外観であるのに対して、関東州庁舎では、全長124メートルにもおよぶ長大な正面にもかかわらず、両端部の正面側に出入口がなく、また、両端部が手前に張り出すこともない。また、正面中央に車寄せを設け、その後方に二層を貫くジャイアント・オーダーを付けているのは官衙建築の典型的な手法ではあるが、この時期の多くの官衙建築が正面中央に塔屋を立てているのに対して、この関東州庁舎にはそのような塔屋がない。さらに、この庁舎の平面(図1-12)を見ると、一階・二階は中央後方に食堂や正庁が突き出しているものの、三階・四階には突き出た部分はなく、南側に諸屋をとり、北側には東西に廊下が延びるという「片廊下」形式の平面であり、そのため、建物の間口に対して奥行きが極端に小さい建物となっている。これは、当時の官衙建築によく見られる中庭を建物が取り囲むようにしたロの字型、日の字型の平面とは大きく異なる平面であることがわかる。これは、敷地に余裕があり、あえて、平面形状は中庭を取り囲むようなロの字型や日の字型にする必然性がないためであると考えられる。(p.71-73)


関東州庁舎の建設は1937年(昭和12年)のこと。

私が見てきた歴史的建造物の中では、小樽市の庁舎が1933(昭和8)年竣工だが、左右対称で正面に車寄せがあり、その後方に装飾的なジャイアント・オーダーがあり、両端にも出入口がある点などはここで述べられた典型的な官衙建築と共通している。塔屋がないことや両端を強調する装飾がないことなどはここで述べられているものとは違うが、本書の記述のお陰でかなり当時の官衙建築についてのイメージを明確にすることができたと思う。



客溜りの上部を吹き抜けにする方法は、台湾銀行本店でも紹介したように19世紀後半から今日に至るまで、規模の大小を問わず、銀行建築では一般的に行われる方法である。その場合、吹き抜け周囲の二階部分は、吹き抜けを取り囲むように、ギャラリーが廻っていることも一般的な方法である。(p.128)


言われてみればその通りであると気づいた。上の引用文と同様に小樽市の事例で言えば、日本銀行旧小樽支店や旧三井銀行小樽支店はこのようになっていた。典型的な手法についての知識――これは理念型のようなものとして機能する――があると、それとの差異によってそれぞれの建物の特徴を捉えることができて便利である。



 一方、台湾では、日本資本による製糖会社が、それぞれの工場を核としながら、その周囲に社宅だけでなく、社宅と一緒に生活必需品を扱う商店や理髪店、集会所を設け、社員の生活が成立するように市街地を建設していく。この手法は、鉄道附属地で市街地建設を進めた満鉄が、社宅だけでなく図書館や病院、倶楽部といった公共施設を建設して、社員の生活の場を確保していったことと類似する。
 結局、植民地などの支配は、単なる政治的・軍事的支配によって成立するものではなく、経済的・文化的・社会的支配という形態が存在し、それらが両輪の如くかみ合った上で成立するものであるといえよう。(p.148)


こうした資本による産業用の人工的な街の形成は、台湾の九份・金瓜石の金鉱や北海道の石狩炭田にある炭鉱でも起こったことであった。大規模な資本の投下が必要な産業で、特定の土地で集中的に行う必要がある場合に一般的にこうした現象が見られたと言うことができるように思われる。



 その後、1906年には中等教育機関として国語学校中学部の校舎と寄宿舎の建築費が確保され、煉瓦造二階建の校舎と木造二階建の学寮(寄宿舎)が1907年から1911年にかけて建設された。……(中略)……。また、対島民関係とは、日本国内の中等教育機関の校舎よりも立派に見える校舎を建てることが、台湾総督府による台湾支配にとって必要であったことを意味している。すなわち、あえて贅沢な校舎を建設したということができる。(p.191-192)


なるほど。1年ほど前に台湾に行った際、いくつか日本統治時代に建設された学校建築を見てきたが(例えば、現・立法院や現・台北当代美術館)、それらがいずれもあまりにも立派だったことに驚き、なぜここまで立派なのか不思議に思ったものだが、ようやくその意味が理解できた。



このうち、1928年6月竣工の法文学部本館(図3-6)は、鉄筋コンクリート造三階建の建物で、外壁にスクラッチタイルを貼っていることや三連アーチの玄関、最上階のアーチ窓からつくられる外観は、当時、震災復興で校舎を建て替えていた東京帝国大学の一部の建物をはじめ、九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.196)


京城帝国大学についての記述より。同じ時期の大学の校舎にも共通のデザインが見られるというのは面白い。確かに、北大の旧理学部(現・総合博物館)には最上階のアーチ窓があり、農学部は車寄せが三連アーチの玄関になっている。



 駅と駅前広場が、都市において特に大きな役割を果たしたのは、満鉄沿線の駅であった。満鉄の定款には、沿線の鉄道附属地において都市建設を行うことが会社の使命として記された。そこで、鉄道附属地における満鉄の都市建設は、駅を市街地の核とし、さらに市街地の別の場所に広場を設けて、駅とそれらを結ぶ道路を幹線道路としたことであった。その典型は、奉天や長春における満鉄鉄道附属地での都市建設であった。(p.231-233)


ヨーロッパの場合、駅舎は市街の中心には入ることができない事例が多いが(私の脳裏に典型として浮かんでいるのはパリ)、それ以外の地域では駅が市街の中心になっている事例がしばしばある。鉄道が敷設され、駅舎が立てられる時期の社会的な条件の違いが市街地の形成にも影響していることがわかり興味深い。

ヨーロッパの場合は植民地化や半植民地化されることがなかったため、植民地化されることに付随して新しく都市が建設されたりすることがなかったということが関係しているように思われる。



後に台北城の城壁が撤去され三線道路と呼ばれる広幅員の道路が建設されると、台北駅前は旧城内の市街地と一体となった。そして、この駅前広場から南に延びる表町通の突き当たりには台北公園があり、その正面に台湾総督府博物館が位置している構図は、市街地を貫く街路の両端に公共性の高い建物を置くというバロック的都市計画の典型的な手法と同じであった。なお、こjの台北駅は、1938年から1940年にかけて、鉄骨鉄筋コンクリート造で建て替えられた。(p.239)


台北城内の都市のパターンがバロック的な都市の手法を用いているというのは面白い。


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