アヴェスターにはこう書いている?
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片倉佳史 『観光コースでない台湾 歩いて見る歴史と風土』(その1)

 その後、19世紀の中盤から再び布教が始まり、特にイギリスとカナダからやってきた長老派の宣教師が盛んに布教を行った。日本統治時代に入ると、彼らは私立学校を開き、教育面からも社会に影響力を持つようになった。特に、日本統治下で教育機会の差別を受けた台湾の子弟が、こういった学校で先進的な教育を受ける機会を得ていた意味は大きい。現在も、こういった学校を出た人々は社会に勢力を保っている。中でも「台湾土着」の立場を貫いてきた長老派教会は医師会を中心に大きな影響力を持っている。(p.39)


淡水のマッケイ博士が設立したオックスフォード大学が即座に想起された。

また、宣教師は単なる宗教家ではなく、政治的社会的な活動家でもあるという側面も見落としてはならないということが、こうした事例からもわかるだろう。



 日本統治時代の末期、皇民化運動という同化政策が強力に推進されたが、現実には、宗主国民である日本人と植民地人である台湾の人々の間には、さまざまな「区別」が存在していた。そして、「日本人であって日本人ではない」という特殊な状況は、人々に「台湾人」というアイデンティティを形成させた。(p.74)


日本統治下では台湾人のアイデンティティが形成されたということはこれまでもいくつかの文献で読んだことがあった。日本統治時代の初期は抗日運動がかなり多く行われていた時代であり、ある意味、「外部」から侵入してくる人に対して結束して対抗しようとするタイプの、抵抗的なナショナリズムに近いタイプのアイデンティティ形成を助長していたのではないかと思うが、日本統治期の後半はこうした区別やこれと重なる部分を持つ差別の存在によって「台湾人」というアイデンティティ形成を助長した面がありそうである。



 烏来には日本統治時代に「高砂族」と呼ばれた先住民の戦没者慰霊碑がある。烏来を訪ねた際には、ぜひとも足を運んでみたい場所である。
 高砂義勇隊は太平洋戦争中に日本軍として戦った先住民兵士たちのことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。彼らは「義勇」の人員であり、軍人の地位は与えられなかったのである。……(中略)……。
 日本の敗戦で戦争が終結すると、彼らは生まれ故郷である台湾へ戻された。しかし、そこはすでに日本領の台湾ではなく、蒋介石率いる国民党政府が新たな統治者として君臨していた。復員兵士たちは、日本が台湾を放棄した時点で日本人ではなくなり、自動的に中国(中華民国)人にされてしまったのだ。当然ながら、「敵国兵士」であった彼らへの風当たりは厳しいものがあった。そればかりでなく、終戦後、一貫して行われてきた国民党政権の偏向教育の下、彼らはそれまでの半生を否定され、日陰で生きていかざるを得ないという状況を強いられたのである。(p.107-109)


ここは是非立ち寄ってみたいところである。それにしても、高砂義勇隊の成り行きは可哀そうしか言えないというか、やるせないものがある。この場合の問題は、彼らが中華民国の国籍と日本の国籍を選ぶ自由がなかったことに大きな問題があるように思われる。台湾にもともと住んでいた人々の子孫だからといって、新たに台湾を統治することになった中華民国の国籍を持たなければならない必然性はないはずである。

もっとも、この自由を認めてしまうと、台湾在住の「台湾人」たちのある程度の割合の者が日本国籍を求めることとなる可能性があり、そうなると台湾は国民党政府が治める地域の中に日本国籍と中華民国国籍の台湾人が多く混在することとなってしまい、統治する側からすると面倒なことになる。かといって、日本国籍を希望した台湾人が日本に引き上げるというのも、確かに問題があり、どうしてもどこかにしわ寄せが来てしまうことになる。基本的にそれは弱い立場の者におしつけられる傾向があるが、台湾の人々は日本、中華民国、中華人民共和国、さらにアメリカをはじめとする連合国といった勢力のせめぎあいの中で面倒を押し付けられたグループの一つだと言えそうである。現在、台湾で「原住民」とされている人々は台湾の中でもさらに少数派なので、その矛盾がされに鮮烈な形で表れているように思われる。



 日本統治時代の基隆は興隆の一途をたどった。基隆湾は天然の良港だったが、計画された港湾規模は大きく、築港工事も大がかりなものとなった。ちょうど、台北の外港だった淡水が土砂の堆積で港湾機能を失いかけていた時期である。本格的な築港工事は1899(明治32)年に始まった。完成を急ぐため、工事は昼夜をわかたず進められたという。(p.114)


交通に着目するにあたり、港というインフラに関しては私はまだあまり十分な基礎知識がないのだが、私が地域研究の対象としている北海道の小樽市の港とほぼ同じ時期に大規模な築港工事が行なわれている点には注意が引かれる。こういう場合、他の港湾もいくつか同じ時期に大規模工事をやっていそうな気がする。ちょうどそうした時期だったのではないか、という仮説を立てておきたい。というのは、この5年後に日露戦争を行っているからである。




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