アヴェスターにはこう書いている?
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後藤治 監修、王惠君、二村悟 著 『台湾都市物語 台北・台中・台南・高雄』

 こうして台北城の主要な施設の建設は、しだいに完成していった。とはいえ、城内に町家が並んでいる街道は、北門街、西門街、府前街と府後街だけであった。そのほとんどが西北区域に集まっているのは、北門(57頁)は大稲埕に連なっていて、西門は艋舺に連なって往来の人口も多く、城を出ると道路があるからであった。それに対して、東門と南門の外はまだ空地であった。小南門の外には、板橋に向かう道路があったが、沿道にはまだ家屋はなかった。(p.22)


台北城の北半分が商業街となり、南半分が官庁街となったのは、経済や流通の面で重要な位置を占めていた大稲埕や萬華とのアクセスが大きな要因となっている。

なお、台北に城壁が完成したのは1884年であり、1904年にはほとんど壊されてしまった。



 艋舺、大稲埕と台北城との間の面積は約12万坪あり、平均地盤面は台北市よりも約4m低く、いつも浸水状態の低地が存在していた。……(中略)……。
 その後、地主と請負商人とで契約し、1917年に埋め立て、1918年に土地の区画整理が進められた。市区改正計画の執行で、もともと商業の繁栄していた西門一帯はいっそう栄え、これは戦後まで続いた。この埋め立て事業は、三市街が連なって一つの都市となる出発点であった。
 1920年代の台北は、艋舺と大稲埕は引き続き台湾人を主とした商業と住宅地区で、城内にはますます多くの日本人が移住してくるようになっていた。日本人の住宅地区は、城内東南部の官舎のある地区と、城南と城東の新たに開発された地区で、これらの区域の住宅はほとんどが日本式の住宅群であった。(p.29)


現在の台北市を基準として考えると、艋舺(万華)も大稲埕も旧市街の中心近くにあるように思えるが、1917年の低地埋め立ての前までは別々の地区だったようだ。

こうした経緯を知ると都市の成り立ちが見えてきて興味深い。また、2つ前のエントリーで『台湾 近い昔の旅』の著者である又吉氏が日本政府が台湾を支配下に置いた後の台北城の開発が「日本人中心の都市政策」であると批判していたことは、上記の引用文のような事態と照らし合わせると、別々の地域だったのだから艋舺や大稲埕に(最初には)資本を投下しなかったとしても不思議はないのではないか、と思われる。



1930年代はまた、台湾に初めて建てられた木造建築がシロアリの被害に遭い使用が不便となって建て直す時期に指しかかったときでもあった。この頃から、西洋の古典主義の建築にはしたがわなくなり、新しい世代の建築家の設計観が実現されるようになった。たとえば、井出薫設計の台北市公会堂、栗山俊一設計の台北放送局演奏所(現・二二八紀念館)などが代表的な例である。(p.32)


引用文では古典主義と書かれているが、歴史主義という方が正確であろう。いずれにせよ、新しい「鉄筋コンクリート造」の建築が普及していき、構造上の制約から従前以上に解放されたことによって歴史主義からの脱却が本格化していったという世界的な流れが台湾でも見られたということであろう。



 統治時代には、基本的に日本人専用の日本語学校として使用され、廟としての役割は奪われ、建物は朽ちていった。1917年、大規模な修繕が可能となり、陳培根が募金を始める。このときに改築したために、現在も昔の姿を維持できていると評されている。(p.42)


台北の保安宮についての説明より引用。この施設は台北のガイドブックにも掲載されており、観光客も比較的よく行く場所の一つではないかと思うのだが、日本語学校になっていたということは私の手元にある『地球の歩き方』(台北'10-'11)には掲載されていない。台湾を訪れる際には、こうした歴史についてもできるだけ了解した上で行くことが望ましいように思われる。(もちろん、こうしたことは台湾に限ったことではない。)



台湾は、日本と比べてもRC造の導入は早い
 日本では、海軍技師・真島健三郎設計で、1905年竣工の佐世保港内第一烹炊所、同潜水器具室が早期の例である。土木では、田邊朔郎設計で、1903年竣工の琵琶湖疏水橋が最初である。
 一方台湾では、福田東吾設計で、1902年起工、翌年竣工の台北第一連隊第一大隊の屋根が早期の例である。(p.125)


台湾では鉄筋コンクリート造の導入が日本の「本土」よりも少し早いようだが、初期の事例の時期を比べると、それほどの差はないようだ。(5-10年くらい違うのかと思っていた…。)台湾の方が普及速度が速かったのだろうか。



 日本人のなかには台湾は日本よりも遅れていると考えている人も相当数いるようだが、決してそんなことはない。こと近現代の建築物の保存活用に関していえば、ずっと先を行っているといってよい。われわれは先進国から素直にもっと学ぶ必要がある。(p.140)


確かに、台湾には多くの日本統治時代の近代建築が残っており、日本国内よりもその密度はずっと高いように思われる。そうした点から考えると、著者の言い分はもっともであると思われる。近々、台湾を訪問する予定だが、いろいろなことを学ぶ姿勢を持って多くのことを学び取ってきたいものである。


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