アヴェスターにはこう書いている?
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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その3)

 日本の植民地支配と海外侵略の歴史に必ず姿を現わす「東本願寺」(真宗大谷派)はかつての西門町に、「西本願寺」(真宗本願寺派)はかつての新起町にあった。……(中略)……。
 東本願寺は、仏教界ではいち早く中国・朝鮮に布教(開教)活動をした実績を持っている。日清戦争がはじまると、すぐに従軍布教、宣撫工作、思想善導を開始した。およそ仏教の本義とは関係のない、植民地支配の先兵としての地均し役を演じていたのであった。(p.158-159)


私の持論である「宗教現象は政治的な現象である」というテーゼを地で行っている。確かに2-3年前に京都の東本願寺を見学した際、確かにこうした戦争に加担したことについての展示があった記憶がある。



 日本軍が入城した頃の総統府一帯は、家廟のほかは何もない一面の広場であった。近くには沼地もありウナギが釣れたという。また広場は一時期、野球やテニスのコートにも使われた。今の状況からはとても想像できない。
 日本軍はまずはじめに、台北城内に置かれていた清朝の布政使司衙門を占拠し、台湾総督府を開庁した。現在の中華路沿いの中山堂(台北公会堂跡)あたりだ。そこには巡撫衙門も置かれていた。まさに城内の中心地だった。
 台北城の城壁が1899年(明治33)に撤去され、その跡に前述した三線道路が開通した。日本の台湾植民地支配の本拠地を築くための、最初の本格的な事業だった。
 台湾総督府の支配体制は、城内の建造物を次から次へと破壊しながら、新たに台湾総督府、法院、学校、台湾銀行、新公園、博物館、総督官邸、民政長官官邸、台北公会堂、医院、図書館、放送局、憲兵隊、軍司令部、監獄、日本人町などをつくることによってできあがっていった。
 城内の整備は南北に二分する形で行なわれ、南は官庁街、北側は商業地区に区分された。北側の日本人町だった栄町(現=衡陽路)には、幅18メートルのアスファルト道路がつくられ、亜熱帯の暑さと、降雨を防ぐ亭仔脚のついた店舗が並んだ。そのほかに本町(現=重慶南路)、表町(現=館前路)には、銀行、会社、ホテルや、風月堂菓子舗、森永ドライミルク、内地の土産品店、松井呉服店、ホームミシン、森田商会などの看板があふれ、城内は一種の「日本人租界」の観を呈していた。
 都市整備においては、台湾総督府は城内を一貫して優先し、台湾人地区の萬華や大稲埕には力を注がなかった
 日本人町と台湾人街との交流も十分ではなく、城内優先政策は、台湾人に対する偏見と差別を生み出していったのである。(p.163-165)


日本統治時代の台北の市街の展開が良くわかる個所。

ただ、古い建築を壊しながら新しい建築を建てながら支配体制ができていったかの叙述はやや正確さを欠くように思われる。学校や病院などの実用的な建築は著者の指摘に近いように思われるが、官庁関係の建築については支配体制が確立し、財政的基盤が確立した頃に建てられていたはずである。総督府や公会堂の建築などはその典型であろう。

このように考えれば、台湾人地区への開発がほとんど行われなかったというのも、財政的な制限の下での選択だったことが了解されるように思われる。もちろん、当時、台湾人に対する差別があったことは確かであり、そのことは批判的に語るべきものである。なお、こうした関連で言えば、明治の後半になっても台湾より早く体制に組み込まれた北海道の都市も二級市民的な扱いであった(通常の市町村制が施行されず政治的な権利が他の地域より制限されていた)ということの方がむしろ知られていないように思われる。

台北城内が南北に分かれているというのは、現在の建物の配置を見ても納得できるところであり、台北の市街の展開を認識するにあたり、非常に参考になった。大まかに言って、北が商業地になったのは大稲埕や萬華に近いから、すなわち淡水河に近いからである。



 表町は台北の一等地といわれた。城内で最初の商業地でもあった。清代には艋舺(萬華)から商人が入り込み、ここに店舗をかまえたのが商業地のはじまりになったという。日本時代には金融の中心地としても発展したが戦後、これらの建物もまた「日産」として没収され、現在も金融関係の銀行、保険、証券会社などが集中している。台湾人はこの街のことを、館前路にかけて「管銭路」と呼ぶほどである。(p.180)


すぐ上で述べたように、台北城の北部が商業地区になった理由は、このように大稲埕や萬華からのアクセスにある。



 日本時代の建物の多くは、1910年(明治43)の大水害のあとの都市整備で建造された。(p.181)


この後、台北に建設ラッシュがあったのだろう。

台湾で鉄筋コンクリート造の建築が日本本土よりも早く建てられるようになった理由の一端も、このあたりと関連するのかもしれない。



 日本人から見れば、梅屋敷跡は孫文を記念するだけではなく、一つは、日本時代初期における料亭の繁昌ぶりを知ることのできる建造物だということ、もう一つは、台湾随一の高級料亭のなかで、歴代の台湾総督・民政長官・高級官吏・政財界の大物らが飲み食いをしながら行なった「料亭政治」の一端をうかがえる建物だということである。また、日本時代の日本式家屋が次から次へと消えていくなかで、台北駅に近い一等地にありながら植民地時代の歴史と文化を知ることができる場所でもある。(p.264)


この「梅屋敷」は現在、国父史蹟紀念館として公開されているので、可能であれば次の渡台で見学してきたいと思っている。


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