アヴェスターにはこう書いている?
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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その2)

 1965年(昭和40)、東門は「大南門」「小南門」とともに改修の手が加えられた。東門の原形は、面積115平方メートル(34坪)、高さ10メートルで二層からなり、城楼の三面は口が開いていた。戦闘に備えた閉鎖式のものだった。周辺は厚い壁で囲まれ、正面には銃眼が施されていた。屋根は、南中国の閩南系の、曲線の多い様式だった。
 これが戦後、北方系の宮殿式の楼閣に改修されたのである。中国大陸から外省人が渡台し、特権的な立場にあった彼らの影響力がもろに反映したためである。
城門の改修一つとってみても、現代台湾の政治的な勢力関係が表れているのがわかる。
 戦後建てられた建造物で、日本人にもよく知られている故宮博物院、国父紀念館、圓山大飯店などは北方系に属する中国様式を持つ建物である。北方系にしたのは政治的なからみがあり、外省人の大陸への強い望郷の意識と、南方系建造物に対する低い評価が原因であるといわれる。
 私は、文化財の原状保存を第一の目的とする立場から考えると、台北のシンボルとなっている城門を南方系様式から北方系様式に変えたのは、大きな問題をあとに残したことになったと思っている。(P.81-82)


台北城の城門の様式が戦後の改修によって南方系から北方系の様式に変えられたという。その背後に政治的な状況が反映しているとされる。興味深い指摘である。実際、本書のこの指摘の個所には南方系様式だった頃の写真と改修後の写真が載っているが、印象が大きく異なるものであることがわかる。



 中正紀念堂の敷地は、日本人と関わりが深いところだ。日本時代、中正紀念堂の占める全敷地は旭町と呼ばれ、軍用地だった。(p.84)


本書にはこの手の過去の台北の市街の様子がわかる記述が豊富にあり、その点が非常に参考になり、台北という地の歴史的展開を知るうえで役立つ。



 この西線の西側を、1908年(明治41)に全線開通した縦貫鉄道が基隆から台北・台中・台南・高雄を結んで走っていた。この線路は1989年(平成1)、新台北駅の竣工に伴って地下に敷設され今は地上にはない。(p.115)


地図を見ると今もこのかつての西線に沿って地下を鉄道が走っているのがわかる。こうした細かな変遷を踏まえて地図を見るとどんどん面白くなってくる。



 私もまた、初めて台北駅前の陸橋から三線道路を眺めたとき、強大な権力を背景に有無をいわさず断行したからこそこれだけの大通りがつくれたんだと、率直に思った。同時に、学生の頃に初めて見た北海道札幌市の大通公園の大通りと重ね合わせて、この巨大な通りを眺めていた。台湾支配と内国植民地的な扱いを受けていた北海道開拓とはどこかに共通性があるのではないだろうか、と思ったのである。(p.129)



強大な権力によってこそ大きな通りが建設できたというのは確かにそのとおりだろう。また、台湾支配と北海道開拓の共通性という点については、私も最近気になって調べ始めているところであるが、なかなかこれをまとめて論じている人がいないので自力で解明していくしかないという感じがしている。

ただ、台北の三線道路と札幌の大通公園はその成り立ちは全く異なる。大通公園も確かに行政による権力が介入している(明治4年の都市計画で設定された)点では三線道路と共通性がないとは言わないが、当時の札幌は半ば原野に近い状態で、人口も頗る少なかった(明治4年には人口僅か624人である)のだから(立ち退きや用地取得などの問題が生じる余地はほとんどなく)、開拓使がそれほど大きな権力を行使しなくても比較的容易に大きな道を建設できたものと思われる。



 清代の台北駅は最初、1886年(明治19)に「大稲埕」地区につくられたので別名大稲埕駅とも呼ばれた。忠孝西路の北側を東西に走る現在の鄭州路を淡水河に向かって進むと、右側に中興医院と左側に前述の鉄路医院が見える。この一帯が清代の駅跡である。事実、中興医院の出入口の横に、「清台台北火車票房旧址」の記念碑が立っている。「火車」とは、汽車を意味する中国語である。
 清代の台北駅は、繁栄の中心であった大稲埕と淡水河に集中する物流をさばく運輸の拠点として、多くの物資を基隆、新竹方面に運んだ。
 そして領有後の1901年(明治34)、台北駅は北門町(現=忠孝西路、北平西路あたり)に移転して新しい台北駅となった。大稲埕にあった旧駅は貨物専用の「貨物駅」となった。台北駅の移転は、日本人の多い城内を中心に都市計画を進めていた台湾総督府が、利便性と将来の発展を促したものであった。ここにも日本人中心の都市政策が見られる。
 移転後、台北城の城壁が取り壊されて、三線道路の北線が完成する。当然のように輸送需要が高まり、周辺には会社ビルや旅館等が立ち並び、ビジネス街として発展する基盤ができた。
 台北駅はその後、利用者の増加に応じるため1940年(昭和15)、二年の歳月をかけて改築された。五列のプラットホームとレンガ造りの駅舎。駅舎には、待合室、レストラン、郵便局、売店が設置された。駅前広場は、2万6440平方メートル(8000坪)に拡大された。
 この改築と同時に、樺山町(現=北平東路あたり)に樺山貨物駅を増設した。同駅は現在も使用されていて、今は「華山貨運站」と呼ばれている。初代台湾総督・樺山資紀の「由緒」ある名前から命名された駅だが、「木」がなくなって中華の「華」に変わったのである。ここにも移り変わりが見られる。
 北門町に移転した台北駅は、駅の北側に大稲埕に通ずる出入口ができた。そこは「後駅」とか「裏駅」と呼ばれた。「表」が日本人街である城内に向けた出入口になり、台湾人街の大稲埕への出入口は「裏」にされたのである。(p.142-144)


台北駅の変遷。

当初は大稲埕に駅があったというのが、その時点での経済と物流の中心がそちらにあったことを反映しており興味深い。

著者は「日本人中心」であるとして批判的に描いているが、私が思うに、城内が日本人街であるか否かに関わらず、大稲埕は経済的な中心として機能する基盤が欠けていたため内陸側に駅は移動しただろう、と私は推測する。というのは、台湾人街とされる大稲埕は道幅なども狭く、近代的ないし現代的なビジネス街になるためにはもっと道幅が広くなければならず、そのためには既存の家屋等を大きく破壊しなければならないが、そうした点ではおそらく台北城付近の方が容易だったのではないかと推測するからである。

政治的な決定に関しては、結果として台北駅が東側に移ったことが台湾に住む人々にとって有益だったか否か、ということが批判の際の要点ではないかと思う。著者の批判は意識や意図を推測して差別的なものを嗅ぎ取ったところに噛みついているが、これでは政治的妥当な判断を下す際には心もとないように思われる。

もちろん、当時、城内に日本人が多く住み、大稲埕や萬華に台湾人が多く住んでいたという状況からすると、城内に住む人に有利な政策だったとは言えるだろう。そうした効果を調べたうえで、それに言及しながら批判するというスタンスが欲しい。



 清水建設の前身であった清水組は日本時代、澎湖島の海軍要塞司令部、屏東の飛行第一連隊兵舎、第三高等女学校、勧業銀行台南支店の建設や台北飛行場の改修を手がけ、植民地台湾にあって業績を拡大してきた建設業者だからである。
 また、城内の新公園脇の公園路で、工事中の日本の大手建設業者・大林組を見たこともある。大林組も日本時代から台湾との関わりが深く、新公園の正門近くに建つ旧勧業銀行台北支店(現=土地銀行)は、1933年(昭和8)に大林組が建設したものである。(p.144)


私は外国に行くと建築をよく見に行くが、設計した建築家だけでなく施工した建設業者も興味を持って見てみたい。台湾では特に。

ただ、著者の拒絶反応はやや行き過ぎであると思われる。仮に清水組が植民地建設に加担しなければ、別の業者が加担することになっただけだろうから、そうした過去があることをもって「特定の建設業者=悪」という印象を抱くのは不当であろう。もちろん、支配に加担した組織としては、そうした過去があることに関して何らかの反省(に基づく行為の「改善」)をすべきではあるだろうが。



 鉄道ホテルは、閑院宮の夜会参列をもって、皇族をホテルの第一号利用者にした。そうしてホテルの格を上げたのである。……(中略)……。
 しかし、1945年(昭和20)5月31日の台北空襲で、米軍は鉄道ホテルを爆撃目標の一つにした。その空襲で、ホテルはいっぺんに瓦礫の山と化してしまった。この空襲では、台湾人街の大稲埕と萬華が意図的に外され、爆撃は日本人街の城内に集中した。台湾支配の象徴である台湾総督府をはじめ、法院、台湾銀行、台湾軍司令部、台北駅などが被弾した。(p.147)


台北が日本の領土として米軍に空爆されたことさえ、日本ではすでに知らない人も多いのではないか。このことは以前にも触れたことがあるのでこれ以上繰り返さないが、こうした空襲の被害を免れたことが、萬華や大稲埕(廸化街)に古い街並みが多く残っている要因の一つであることは銘記しておいてよいと思われる。


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