アヴェスターにはこう書いている?
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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その1)

 敗戦になって日本人が台湾を引き揚げたとき、日本語の普及率は台湾人540万の71%になっていた。日本時代の台湾人にとって、日本語を自由に話したり、読み書きができるということは、ほとんど生きる術に近かった。特に知識人・文化人たちほど進んで日本語の学習に精を出したという。(p.19)


台湾における日本語の役割等についてはこれからもっと深く調べたいと思っている問題である。まさに日本語で教育を受けた世代はそう遠くないうちに台湾からいなくなってしまうから、早急に調べてそうした人たちにインタビューをしておきたいと思っている。



最近の「台湾史ブーム」のなかで、市街の大きな書店に行けば、地図の復刻版も日本時代の写真集も出ていて、以前よりずっと入手しやすくなった。(p.20)


本書が出版されたのは1996年なので「最近」というのは、90年代前半頃ということになるだろう。ちょうど台湾で言論が自由化された時期にあたる。その時期に「台湾」を単位とする歴史が語られ、今日の「台湾化」というか台湾ナショナリズムにもつながっていく。地図や日本統治時代の資料などもその時期から入手しやすくなったというのは興味深い。次回訪台時には日本統治時代の資料があれば購入してこようと思う。



 台北に残っている日本時代の史跡を何度も見ていると、当時の日本人は、植民地支配が永遠に続くと考えていたにちがいないと思えるようになった。そういう気持ちがなければ、こんなに堅牢で半永久的な建造物を本気になってつくれるものではない。植民地支配が40年や50年も続くと、いつのまにか自分の庭にいるような感覚に陥ってしまうのであろう。事実、日本人は国内と変わらない、本格的な「開発」を進めたのである。
 かつての在台日本人から「台湾を近代化し開発してやった」と聞かされることがよくあるが、歴史の事実からはほど遠い発言だと私は考える。調査の結果からもそうだが、当時の「開発」はあくまでも日本人のためにあった。(p.23)


私としては著者の意見には共感するところも多いが、本書全般を通じて論理や分析に問題がある個所が多いのが残念である。前段は「植民地支配はよくない」という感覚に発している点で共感するが、中途半端な開発を行っても、本国資本の増強には役立たないだろうから、本格的な開発をするのは当然であろう、と思い、著者の指摘は感傷的すぎるという印象を抱かせる。こうした印象を抱かせることは、著者に共感しない人に対して反感を増幅させることになる点で本書の良さをやや減退させる要素となっているように思われ、もったいない。

後段については、在台日本人の意見の傲慢さにはあきれるところがあるものの、著者の意見も意図に重点が置かれている点で不十分であるというのが私見である。日本政府による台湾の植民地支配はそれほど台湾を低開発化したわけはない(植民地化初期は農業を重視しながら、後期には農業と工業がかなりの水準に達していた)点で、結果としてのちの経済力向上の基礎を残した部分があることは否定できないと思われる。だから、日本政府側が「台湾を開発してやった」という意図がなかった点で在台日本人の意見は誤っているが、結果として経済的な展開を助長する成果も残したという点では負の遺産だけを残しただけだとも言い切れない部分があることはもう少し認めるべきだろう。ただ、それが日本が支配したから正の遺産が残ったと言うのだとすれば、その妥当性に対しては疑問を呈す必要があるだろうが。

いずれにせよ、残念ながら「在台日本人」も著者も、意図を強調しすぎている点で誤ってしまった(一面的な解釈に陥っている)と言わざるを得ない。



 日本人の台湾への関心は1593年、豊臣秀吉が桃山時代の政商・原田孫七郎に「高山国」宛ての「親書」を持たせたことからはじまった。その後1608年、徳川家康が原住民族のアミ族の使者と引見し、引見の翌年に、キリシタン大名で有名な有馬晴信をつかわして台湾東海岸を探検させた。そして1615年、長崎奉行・村上等安が家康の命を受け、約4000の兵を率いて台湾に侵攻した(結果は失敗に帰した)。
 こうして日本人は浜田弥兵衛の襲撃事件を最後に、鎖国令によって台湾から引き揚げていった。このあと日本人が台湾に再び姿を見せるのは、侵略の意図をあらわにした近代の明治期である。(p.34)


1593年から1628年までの30年余りの間に日本では台湾への関心が高まっていたようである。いまだウェストファリア条約以前の時代であり主権国家や国民国家という概念は存在しなかっただろうが、西欧諸国が相次いでアジアに進出しているという情勢を受けて、当時の支配層がどのようにして自らの支配体制を盤石なものにするかということを考えていただろうことは想像に難くないところである。そうした中で琉球なり台湾といった地域の重要性が客観的にも高まっていたし、為政者たちの中でも重要な地域としての認識も高まっていたものと思われる。

台湾側の歴史書などでは、この時代の日本側の台湾への関心と明治時代の台湾への関心とを連続的なものとみなす粗雑な議論もあるが、200年以上の時を隔てた為政者が同じ考えを抱き続けるなどということ自体、非現実的な想定であると言わざるを得ない。ただ、日本列島にしてみれば太平洋からアメリカが来る他、ヨーロッパからは日本列島の南を通ってやってくるのだから、台湾の位置がどちらの時代にも重要となっていたという地政学的な状況は大きく変わっていない。このため日本の為政者たちは同じように台湾に進出しようとしたと理解すべきだろう。



 後藤はまた、新渡戸稲造を台湾総督府に招いて糖業の品種改良に努め、技術導入を計った。しかしこれは、台湾人の自営的な糖業を駆逐して、日本の糖業資本に吸収する道を開くものであった。(p.42)


このあたりの評価もあまり一方的な形で断定することは難しいだろう。こうした評価の方法が本書をわかりやすくもしているが、著者の価値観だけが前面に出過ぎて事実の様々な面を見ようとする姿勢を減退させている点で問題でもある。特に著者に共感する人々にさらなる探求をしようとさせる原動力を奪ってしまうことがある点で注意を要するように思われる。これは本書だけでなく、やや粗雑なポストコロニアリズムの議論が一般的に孕む問題点の1つであろう。



 中国大陸からの漢民族の台湾移住は、原住民族の漢化を推し進めた。清国政府は、教化が進むなかで、原住民族にも漢字の姓「潘」を多くつけた。「生蕃」の「蕃」と発音が近いことが参考になったといわれる。今でも原住民族に「潘」姓が多いのは、そのためである。(p.52)


そういえば、私の知り合いの台湾人にも「潘」さんがいた。この人は台湾語(ホーロー語)を母語とする閩南人だが、原住民とも祖先では関係があるのかもしれない。次に台湾に行くときには、このあたりのことも少し聞いてみようと思う。



 台北城の築城と日本人との関わりは深い。特に、私が生まれた沖縄(当時は琉球)とは、直接的な関わりを持っていた。築城のきっかけになったのは、1871年(明治4)の「台湾遭害事件」(台湾では牡丹社事件という)である。これは、琉球人の貢納船が台湾南部に漂着し、54名が原住民族に殺害されるという事件だった。(p.55)


清朝による台湾領有の積極化への転換期に、その一環として台北の城壁も作られたということらしい。



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