アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マイケル・サンデル 『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 下』

 この格差原理は、今日の政治哲学において、社会保障や福祉国家を正当化する、最も強力で有力な政治哲学の原理になっています。この実現が義務であって正義である、ということが非常に重要です。「政策として社会保障を行う方が国民の支持を受けるかどうか」とか「その政策の結果、経済が上向くかどうか」といった話ではなくて、「正義であるから、必ず、結果にかかわらず実現しなければならない」という強い意味を持つわけですね。(p.64-65)


ロールズの格差原理には興味を惹かれる。ロールズの名前などはこれまでもしばしば目にしたことがあったが、あまり20世紀半ば以降の英米系の哲学には興味が惹かれなかったので、まだ読んでいない。本書を読んで、ようやく私にもロールズなどを読んでみようという気になった。



 ここで、能力主義の概念の擁護者へのロールズの回答に目を向けたい。
 ……(中略)……。
 二つ目の答えもある。努力を引き合いに出す人は、本当は、道徳的な適価は努力に付随していると信じてはいないのだ。二人の建設労働者がいる。一人は力が強く、汗もかかずに一時間で壁を建てることができる。もう一人は、小柄でひどく痩せていて三日かけなければ同じ仕事をすることができない。
 能力主義の擁護者には、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、「彼は頑張っているからもっともらうべきだ」と言う人はいない。それは、本当は努力とは違うからだ。これが、能力主義の主張に対する二つ目の回答だ。
 能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく貢献だ。どれだけ貢献したかが重要なのだ。
 しかし貢献は、私たちを単なる努力ではなく、生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そして、私たちがそのような才能を持つに至ったのは、自分の行ないのおかげではない。
 では、「努力がすべてではない、能力主義の観点から重要なのは貢献だ、努力ですら私たち自身の行ないではない」という議論を君たちが受け入れたとしよう。それはつまり、ロールズによれば、道徳的な適価と分配の正義の間には、何の関係もないということだろうか。そのとおりだ。分配の正義は道徳的な適価とはまったく関係ない。(p.75-76)


能力主義に対するかなり的確な批判の1つだと思う。

さらに付け加えれば、能力主義者や成果主義者が貢献によって取得するべきだと言うとしても、それを正当化する論理はないはずだということである。貢献したからその果実をその人が受け取るべきだ、と言える根拠はない。それは単に貢献したからその果実を受け取りたい、とその人が思うというだけであり、そのような欲求があるということが貢献した結果をその人が受け取るべきだということは別のことである。多くの人がそこを混同しているため、この手の議論は混乱を極めることになる。

なお、本書の上巻で議論されていたリバタリアニズムにおける自己所有の原理も「自分の労働の成果は自分のものにしてよい」という理由はないのであり、自己が社会的な負荷を持っているかどうかというコミュニタリアンの批判とは別に、そもそもリバタリアンの自己所有の原理は道徳的な正当性を主張することができない誤った原理であると批判すべきものであろう。



 私たちが、この技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で生活していたとしたらどうだろうか。この才能では大して成功できないだろう。もちろん、別の才能を発揮させる者もいるだろうが。
 では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。
 ロールズの答えはノーだ。私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなるからといって、私たちの価値が下がるということではない。
 ここが重要だ。私たちの社会において、偶然それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能をたまたま持っていない人についても同じことが言える。これが、道徳的な適価と、正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。
 私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし、私たちが偶然豊富に持っている資質を偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしいと考えるのは間違いであり、うぬぼれである。(p.79-80)


道徳的な価値があるから報酬が得られているという考えを否定する点には私も賛成するが、便益に対する資格があるかどうかは社会的な制度や手続きがそのように制定されているかどうかという要素を組み込んで説明すべきではないかと思える。ロールズの議論でそれがなされているかどうかは、まだ読んでいないので知らないが、才能があるから便益を得る資格があるとは言えないように思われる。能力を活用して社会にある貢献をした場合に、その貢献に対してその社会から正当だとみなされる手続を経て便益が分配される場合、はじめてその資格があると言えるのではないだろうか。単に能力があり貢献したというだけでその成果を受け取る資格があるとは言えないのではないだろうか。このあたりの仕組みが明示的に書かれていないように思われたことが(実際にはこうした意味で言われているのかもしれないが)、本書のこの部分の議論でやや違和感を感じたところである。



 償いの議論に対する最も強力な反論は次のようなものだ。
 過去に犯されたひどい不正義を償うため、現代を生きるシェリル・ホップウッドに犠牲を強いることは公正なことだろうか?
 しかも、彼女自身は、その過去の不正義とは何の関係もないのに、彼女に償えと要求するのは公正なことだろうか?

 これは償いの議論に対する重要な反論だ。
 この反論に答えるためには、時間を超えた集団の権利や集合的責任といったものが、果たして存在するのかどうかを検討しなければならない。(p.100)


これは学校への入学資格を巡るアファーマティブアクションに関する議論の中からの引用だが、戦争責任問題と同じ構造の問題である。

私としては本書を読む前までは過去の不正義に対して補償をするのは行き過ぎていると考えていたが、本書の最後に展開されるコミュニタリアンの理論では「時間を超えた集団の権利や集合的責任」は存在するということが示唆され、そこには多少の説得力があるようにも思えてきた。

ただ、私はコミュニタリアンの理論にまだ説得されたとは言い難く、その理論に対してはいくつか批判を加えたい箇所もあるのだが、それはまた別の場所で行うことにしたい。ただ、本書を読んで多少はコミュニタリアンの側の考え方が理解できるようになってきたのは収穫であった。



 カントやロールズの考え方が魅力的で、道徳的に説得力があるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人という捉え方にある。
 「自由で独立した自己」というイメージは、力強くて解放的なビジョンをもたらす。
 この自己のイメージとは、「自由で道徳的な個人としての私たちは、歴史や伝統など、自分が自ら選んだわけではない過去の事柄には縛られない」ということを意味しているからだ。
 ……(中略)……。
 しかし、コミュニタリアンは、そこからは、道徳的・政治的な生という側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。
 カントの考えに従っていけば、一般の人々に広く認められ称賛される、道徳的・政治的な義務を説明できなくなってしまう
 たとえば、「集団」構成員の義務、忠誠心、連帯など、その人自身は同意した覚えがなくとも、人間には守らなくてはならない道徳的つながりがあるとコミュニタリアンは言う。
 コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは、「自己」を説明するのに、「物語的な観念」を用いている。……(中略)……。
 これは、「自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定され、負荷をかけられている存在である」という考え方である。(p.166-169)


自己というものの捉え方がサンデルの政治哲学ではかなり重要であるらしい。私自身も以前はよく哲学書を読んでいたため、自己という問題については多少は考えたことがあるが、7-8年前に書いた文章ではカント的な「自由で独立した負荷なき自己」ではなくマッキンタイア的な「負荷ある自己」に近いものとして書いた記憶がある。

それでいながら、コミュニタリアン的な道徳観は持たなかったのだが。「私」は共同体の中で位置を占める「から」その共同体で良しとされていることを守らなければならないという理由は必ずしもないし、また、私が属する共同体が「私」のアイデンティティを形成する「から」それらの共同体に義務が生じるという議論も、なぜそこで必ず順接になるかのように議論が運ばれるのかが私にはわからない。コミュニティが奉じる道徳が良いものであるとアプリオリに決めつけることはできないはずだし、それによって形成されたアイデンティティが良いものであるという保証もない。

むしろ、安田雪が『「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス』で述べているように、「縁もゆかりもない遠くの他人が、自分の人生に関与することはまずない。だが、近くにいる人間は、人の人生を左右できる。近くにいる人ほど、そして、口の軽い奴ほど、怖い。(p.27)」という面もあるのだから、むしろコミュニティやその規範からは距離を取った方だ妥当な場合もありうるのではないか?コミュニタリアンの議論では本書を読む限り、コミュニティが半ば無批判的に「善いもの」として措定されているように見え、その点に強く違和感を感じ、疑問に思う。



 私たちは自分の親を選んでいない。そもそも親を持つことを選んでいない。そこには非対称性がある。
 しかし、年老いた人が二人いて、一人は君の親、一人は見知らぬ人の親だと考えてみよう。
 この場合、自分の親の面倒を見る義務のほうが、コインを投げて決めたり、見知らぬ人の親をみる義務より大きいと考えることが道徳的に筋が通っていないだろうか。
 しかし、その義務は同意から発生した義務なのか?そうではないだろう。(p.172)


リベラリズムの自己観が批判されている個所の1つ。このような自己観は単にリベラリズムだけではなくモダニズムとして括られる多くの哲学に共有されているように思われ、コミュニタリアンの考えはポストモダニズムなどと呼ばれるものと意外と近い位置にあるように見え、興味深い。

自分が選んだことに対して義務や責任が生じるということや普遍的な人権などを守る義務や責任が普遍的にあるというだけでなく、共同体に起源をもつ義務もあるのではないかとコミュニタリアンは言う。この指摘はなかなか説得力があるように思う。

ただ、家族や「国家」が個々の人々に対して占める重みは人によって大きく違うのではないか、というのが私の考えである。その意味で、家族がDVなどのため個人に負の影響を強く残している場合は、恩に報いるような形での義務が発生するというよりは、復讐の対象になりうるのではないかと思う。一つ前の引用文でも安田雪の文章を引いて述べたことだが、親だから(関係が近いから)自分にとって良いものであるはずだ、とアプリオリに決めつけることはできないものではないだろうか。

その意味では、サンデルがしばしば犯罪を犯した弟を警察に突き出すかといった問いかけをするが、これは一般化して答えることはできないように思える。AさんとAさんの弟の関係とBさんとBさんの弟の関係は単に形式的に兄(姉)と弟という形式的な関係だけで決まるものではないからである。これはサンデルがリベラルの自己観に対して行った批判と同種のものではないか。

そして、共同体に発する義務は普遍的なたとえば「人を殺してはならない」といった普遍的な義務よりは多くの場合、その重要度は落ちるように思う(コミュニタリアンはそうでもないと言うのだろうが…)。親を助けるか見知らぬ人を助けるかという場面では親を助けるというのが一般的ということになるのだろうが、そもそも人を助けるか助けないかという点では普遍的な道徳が先に働いているという点を見落とすべきではないだろう。少なくともこの例では普遍的な道徳が機能できない細部の選択で優先順位を決める際に共同体に発する義務が機能している



 さらに魅力的なのは、その普遍的な念願、つまり、偏見や差別なしに、個人を個人として扱うという考え方だ。
 君たちのうちの何人かは、「[集団]構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり、私たちが人類に対して負っている義務にいつも劣るに違いない」と論じたが、それはこの考えからきているのだと思う。(P.209)


サンデルが批判している考え方は上で述べた私の考え方に近いものである(同じではないが)。このあたりの問題をさらに掘り下げるため、サンデルやコミュニタリアンの本を少し読んでみたいと思う。本書の議論は私にとって予想以上に刺激になった。



 カントにとって、道徳性は普遍的なものである。自律的に行動し、自分の意思を行使するということは、純粋実践理性の立場から判断することが必要なのだ。私の特定の願望や、特定の目的や、善き生についての特定の考え方を脇に置いて、道徳の根本原理に到達するという目標に向かって判断することを求めるのだ。
 ……(中略)……。
 アリストテレスによれば、私たちがどのような権利を持っているか、あるいは正義が何を意味するのかを理解するには、前提として何が善き生なのか理解できなければ不可能なのだ。
 ……(中略)……。
 だから、アリストテレスにとっては、正義と道徳性は善から論じる必要があるのに対し、カントによれば、道徳の最高原理に到達するためには、私たちが持っている善き生についての特定の見方から離れるか、それを切り離さなければならない。(p.244-245)


ここでアリストテレスの見解として述べられていることは、サンデルの見解でもあるだろう。カントやロールズのようなリベラリズムの自己観を批判するサンデルの思想が良く要約されている箇所であるように思われる。



私たちの義務のすべては、私たちの意思や選択、自律を行使した結果なのか?
 それとも、私たちのアイデンティティを決める特定の文化、伝統、愛着や目的から生じる義務もあるのだろうか?(p.245)


これも上の引用文と同じでサンデルが講義で提示したコミュニタリアンからのリベラリズム批判の要点の1つをなす疑問であり、これが簡潔に述べられているためメモしておく。サンデルはもちろん、後者の問いに然りと答える。このあたりの考え方に対しては本書を読んで理解が深まり、収穫だったところである。

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