アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『飽きる力』

疲れは、重要な身体のメッセージです。疲れを感じることができなければ、回復できないほどあっという間に消耗し尽くすに違いないのです。(p.19)


そのとおりである。このブログの更新がしばらく滞り、今日、まとめて数冊分のコメントを書いているが、これも「疲れ」のためである。最近異様に疲れを感じるのも、やはり身体が無理をしないで作動のモードを変えろとメッセージを発しているのだろう。



単純なネコの話のように聞こえるかもしれませんが、実は人間の作業のなかにもこのタイプのことが多く含まれており、一生懸命になっているとき、がむしゃらに努力しているときは、むしろおのずと積極的に自分で選択肢を捨てている状態に近いのだろうと思えます。(p.35)


この筋違いの努力から離脱して選択肢を見えるようにする発端になるのが「飽きる」という感性の働きだというのが本書の主張のポイントの一つである。



 職場で意見の対立がある。それは頻繁に起きることです。意見の対立のない組織など、本当はすでに組織ではなくなっています。そのとき自分の立場や観点を繰り返すような人は相当数います。しかしそんなとき、意図的にでも自分のあり方に飽きていくことを心掛けていかなければ、一貫して自分の経験をさらに狭くするだけです。
 そのさいにはプロセスのさなかで、微妙な感性が必要になります。その局面で欠くことができないのが、「飽きること」なのです。その意味では、飽きることは自分自身に向かうさいに欠くことのできない、実践的能力になります。(p.63)


特定の立場や観点から同じことを繰り返し説いていても、何らの前進もない。そのような立場や観点への固着はむしろ、上の引用文の「一生懸命」に「がむしゃらに努力」することと同じ状態であるということ。



 また周囲からそれはダメだ、まずいと言われても、自分にはそうは思えない場合には、自分のやっていることを「立場」や「観点」から評価してしまっていることが多いのです。この場合には、聴く力が落ちてしまっていますから、いろいろと自分なりにわかることに飽きていく必要があるのですが、「立場」や「観点」の本性上、飽きるための機会を逸してしまうことが多いのです。わかったときにはすでに経験は狭くなっている、というのが経験の本性です。(p.77)


自分がわかっている「立場」や「観点」に固執してしまうことに対する批判。

ただ、周囲からダメだと言われても逆に周囲が間違っており、少数派にもかかわらず成功する人はいるので、このあたりの見極めは難しいところもあると思われる。ただ、できるだけ柔軟に多様な選択肢を自らに開いておくには、本書の言うように自分が固執しているのが特定の立場や観点になっていないかを感じ取っていくことが必要だと言えそうではある。



最も単純なかたちにすると、良いところをどんどん伸ばし、ダメなところはいじらない、直さない、という訓練の仕方です。……(中略)……。つまりダメなところ、直したほうがいいところも、良いところを伸ばして全体のレベルが上がってしまえば、新たな組織化のレベルで異なった意味を持ってしまいます。これは本当のことですし、重要な確信であり、また物事の核心でもあるのです。(p.86-87)


なるほど。



 オートポイエーシスという理論構想は、基本的にコーチに似ています。ただ、このコーチ自体を成長させないと前に進む手掛かりになってくれない。したがって、このコーチがいつも頼りにされて、最終的な拠り所になっていると、すぐ頭打ちになってしまう。(p.87)


このような最終的な拠り所になってしまっている場合が、特定の「立場」や「観点」に立っている状態だろう。



 ごく普通の日常生活においても、楽しかったことが、忘れられることによって自分のなかにちゃんと入っているというような経験を作る。それはつまり、忘れるということのきっかけは、「何度も過去に生きてしまうこと」に飽きてしまうということなのです。過去に生きてしまうことには飽きてしまう。その「過去に生きる」というやり方とは違うやり方で過去を活用するという「選択」が、ここに生まれているのです。(p.102)


以前と比較して現在の状態が悪くなったとき、どうしても「以前はよかった」と思いたくなるのが人情というものだと思うが、それに飽きて別のモードに切り替えろと。実際にやろうとすると結構難しい。



作戦を立てるということは、作戦というネットのなかで方針を立ててしまっていることだから、選択肢が広いようで狭い。
 ここが最も難しいところなのです。作戦というのは観点や視点になぞらえてよいと思います。最終的には、さまざまなかたちで作戦という選択肢を身につけたが、結局はそれが忘れ去られて消えていってしまい、何か知らないうちにおのずと動いて勝ってしまう、というところまでいかなければならない。そこでは、やはり隙間を開くということが必要となってくる。(p.112)


作戦を立てるということは選択肢を狭めることであるという指摘は鋭い。

オートポイエーシス・システムはこうした隘路を通って作動を続けるわけだ。無意識的にこれまで身につけたことが働いている状態にならなければならない。

大まかに作戦は立ててはみるが、実際にはその場の状況に応じて臨機応変に動きながら、その臨機応変さがこれまで身につけてきた様々な技術や作戦に裏打ちされたものとして行われる、という状態になるのが良いのかもしれない。私も仕事の際にいろいろと作戦を立てて取り組むことがあるため、作戦を立てるのは選択肢を狭めるとの指摘は自分がやってきたことに対する批判でもあるように思われたが、確かにうまくやっているときというのは、あらかじめ建てた見通し(作戦)は実地で変えていることが多いかもしれない。



 努力というのは、結果が出なければ、あるいは面白くなければ本当は意味がない。努力するのは面白くなるためです。ところが、努力して、ただ疲れているというのでは、何のために努力しているのかということになってしまいます。
 こうした問題は、経済においても、あるいは学問領域においても同じようなことが感じられます。努力していることに疲れていると感じたならば、筋の違う努力をしてしまっていることに気づかなければならない。気づくためには、同じような努力に飽きてこなければならない。こうした場合には、飽きるということは、嫌気がさすというようなことではなく、繊細な感性に似ています。(p.122)


この指摘は個人的に非常に有用だったもの。ここ数か月、努力していることに疲れていると感じているので、そろそろ私も飽きなければならないということがわかった。



 こうした筋が違っている努力は、去年も負けた、今年も負けた、また来年も負ける、というように、何度も同じところで同じ状態で起こる。……(中略)……。そこで、意識の問題として出てくるのが、失敗から直接学ぼうとしすぎることです。「失敗から学ぶ」というのは嘘なのです。失敗から学んではいけない。失敗のなかに含まれている成功を育てなければいけないのです。
 ……(中略)……。
 そこで必要となるのが「飽きる」ということです。頭のほうから先に進むことに対して、それは適合的ではないと、すぐに飽きないといけないのです。飽きることによって、進んでいく速度を少しでも遅らせ、さまざまなことを感じ取るための隙間を開いていかなければならないのです。とかくうまくいかないときには、他人に対して非難めいたことを言うようになります。ところがそれは、気持ちのもって行き場を性急に見つけようとしているのです。こんなときそんな自分に飽きることで、今日はおいしいものを作って食べようとか、学生気分になって語学の勉強をしてみようとか、ともかくとりあえず別のことをやってみるのです。集中してできるはずがないのですが、それでもそのなかでそれまで見えていなかったことが、見えるようになることもあるのです。(p.122-124)


このあたりになってくると、本書の言う「飽きる」ということがどういうことか、読む側にもかなりはっきりわかってくるし、記述も明快になっている。飽きることによって(それをきっかけにして)筋違いの努力をしている作動の速度を遅らせ、様々なことを感じ取る余裕を持つことで、別のあり様(選択肢)を見出し、そちらに切り替えていく。



「無視」は欠落とは異なり、積極的で能動的な働きです。そのことは無視のなかに、意識の選択的な働きが含まれていることを意味します。(p.170-171)


なるほど。だから、例えば、特定の人を無視していると疲れるといったことがあるわけだ。



努力を続けながらそこに隙間を開いて、同時にさらに選択肢に自分自身を開いていくのが、「飽きる力」なのです。(p.202)


普通の意味で「飽きる」というと、努力することすらやめてしまうことを意味することが多いが、本書の意味はそうした用法とは異なっている。それは筋違いの努力に対する違和感とでもいうべきものだろう。



 私は、日頃からセラピストとの付き合いが多いのですが、セラピストのなかには、一生懸命勉強して、「私の治療は認知神経リハビリだ」と主張したりする人をよく見かけます。そんなとき言葉にしては言わないのですが、「この人は大失敗しないと、前に進めないな」と感じるのです。治療法は、形成されていくものです。患者ごとに病態は異なりますので、どうやって治療技法を形成していくかだけが問われており、その人の立場や観点が問われているわけではないのです。(p.203)


当然、セラピスト以外にも、当てはまる指摘。



 職場のなかで仕事に不満があるときには、あえて「こんな仕事には飽きた」と自分自身に向かって、つぶやいてみるのです。こんな仕事はいつでも辞める、というのは、それ自体下手な啖呵で、他人向けの自己主張になってしまいます。「こんな仕事には飽きた」と感じたら、何をどう工夫したらよいのかという隙間が生まれてきます。そしてそこから、いくつもの選択肢があることに気づいてもいけるのです。(p.204)


本書の主張の実際的な使い方。



飽きることは、別の経験の仕方を求めることです。そこから少し工夫の余地がないかという模索が始まります。こうした模索の開始の場所に、飽きることがあるのです。(p.205)


本書の「飽きる」ということはオートポイエーシスの創発の機構に深くかかわるもので、「飽きる」というタームによってその開始の地点を言い表そうとしているのだろう。


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