アヴェスターにはこう書いている?
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村上陽一郎 『あらためて教養とは』

カントは十八世紀の後半に活躍したけれど、彼は哲学をドイツ語で書いた極めて初期の人なんです。カントの先輩にクリスティアン・ヴォルフという人がいて、この人はドイツの大学で最初にドイツ語を使って哲学の講義をしたプロフェッサーとして知られています。だから十八世紀の半ばになるでしょうか。(p.37-38)


かなり最近までヨーロッパの書き言葉や学術的な場面で用いられる言葉はラテン語だったという話。



大学の出発点というのは、パリ型とボローニャ型の二種類あると言われていますね。パリ型のほうは、教える側がもう少し効率的に教えられるんじゃないかというので、組合を作り、その組合が貴族の館(誰も使っていない空いたところ)のようなものを探してきて、そこへみんなで泊まり込もうとした。ついでに、教わるほうも一緒に住んだらどうだということになって、いわば教えるほうも学ぶほうも(あえてここは教授と学生とは言いませんけれども)、同じ館の中で起居を共にしながら勉強していくという形がパリ型ですね。
 その館の呼び名を、コレッジオとか、コレージュとか、コレギウムといいます。それがそっくり残ったのが現在のイギリスの大学、オックスフォード、ケンブリッジなんですね。(p.50)


大学の歴史というのも調べると面白そうだ。



私はやはり根本的に「日本語教育」というのを日本の社会の中に打ち立てなきゃいけないんじゃないかと思うんです。日本語教育というのは、世界の言語の中の一つの言語としての日本語、という観点から日本語というものを取り上げていくことです。(p.110)


このように相対化する視点を与えることには意味があると思う。このような教育がなされると、英語教育など外国語教育の意味も同時に高まるのではないか。



 しかもヨーロッパ、アメリカでは何が起こっていたかというと、第一次世界大戦の後は、ある意味で大衆化が圧倒的な意味をもつ時代だった。放送、映画、それから写真。たとえば、ガラス細工。サラ・ベルナールなどの舞台衣装や宝飾、衣装などを担当していた宝飾デザイナーのルネ・ラリックが、1925年のパリ・アールデコ博覧会で出品したのがガラス細工だったんですね。つまりラリックは宝飾作家として出発したんですが、この展覧会で一気にガラス細工のデザイナーとして変身するわけですね。これが文字通り、大衆化です。宝石なんていうのはそう簡単に扱えるものじゃない。けれどガラスはいくらでも手に入るんですからね。(p.158-159)


本書は『やりなおし教養講座』をほぼ再版した内容であり、私は以前にもほぼ同じ内容の本をすでに読んでいたということになるのだが、この部分は当時の私の関心を引かなかった。今読んでみると、なるほど!と非常に納得できるものがあった。

大衆化というキーワードで第一次大戦後の世相を語ること自体は普通だと思うが、ガラス細工も大衆化と関連していることには、今まで全く気付かなかった。ルネ・ラリックの転身を以て象徴的に提示しているところは非常に印象に強く残った。というのは、彼の作品をこの数年でしばしば目にしていたからである。

あの時代に「大衆化」が起こったのは、経済がグローバル化し、主権国家体制が世界レベルで普遍化しきっておらず、強力な権力機構を持つ主権国家を確立した側(いわゆる西洋諸国であり、植民地宗主国)にとっては経済的な繁栄のチャンスが大きかったため、これらの地域で中産階級的な人々が増え、購買力が高まっていたからだろう。

この「大衆化」という観点から、20世紀前半の様々な文化的な現象を捉えると、もう少し面白いことが見えてきそうな気がする。なお、建築における歴史主義からの脱却(アール・デコなど)もまた、大衆化の現れの一つだろう。貴族的な知識を要求する歴史主義建築からそうした知的背景なしに誰もがその美を享受できるスタイルへの移行。



上に話したように、「大衆路線」にも心惹かれるものが多数出てきたことは確かですが、やはりまだわれわれの世代は、読んでいなきゃ恥ずかしいというものがお互いの仲間の中でありました。(p.178-179)


今はこうした「読んでいなきゃ恥ずかしい」という本は本当に少なくなった気がする。



 とにかく何を読んでいても、向かい合う姿勢によって、自らを作り上げるための素材にならないはずはない。(p.190)


確かに、同じ本を読むなら、そう思って読んだ方がよいだろう。



 確認しておくと、現代の教養の一つの重要な意義は、可能な選択肢をできるだけ多く体験すること、あるいはその機会を提供すること、そこにあるのだと、私は考えています。(p.199)


もっともな説に思えるのだが、河本英夫の『飽きる力』を読んだ後の目で村上陽一郎を読むと、どうしても彼がまだ「視点の切り替え」的なものの中にいることが目に付いてしまう。そこをきちんと切り分けていない。



できるだけ専門化を「後回し」にして、様々な可能な選択肢と出会う機会を造る、そのなかから学生の一人ひとりが、自分の判断で、自分が依拠しようとする枠組みを選択できるだけの、人間的成熟と知的成熟とを図る時間を用意しよう。これが今日の教養学部、リベラル・アーツ・カレッジの機能であり、私は現在の状況下では、特殊な例外を除いては、すべての大学(医学進学の場合も含めて)がまずリベラル・アーツ・カレッジであるべきではないか、と考えている理由であります。(p.200)


リベラル・アーツ・カレッジの考え方には賛同できるものがある。『飽きる力』の考え方とも、速度を遅くして選択肢を選べる隙間を作るという点では共通であり、興味深い。



だから機会均等というのは決して戦後に限ったことではないのですよ。……(中略)……。
 ただそれが、いま言ったように貧しさとか、その他いろいろな制約があってなかなか現実には達成できなかったということもあるわけですから、戦後社会が豊かになったために(教育制度が整ったためにではなく)義務教育に関しては就学率がほとんど百パーセントになったというのは、結構なことです。(p.207)


なかなか興味深い主張。



九十何パーセントの人が高等学校でまともに教育を受けられるといことを考えること自体が、本当はおかしいんですよ。(p.207-208)


成績が下位の高校の水準を考えると、もっともな指摘である。更に敷衍すれば、大学に半分の人が進学するというのも、もっと無茶な話だと思う。



 アメリカは中央政府に文部省がないですからね。ドイツもないですよ。中央政府が教育に関して口を出してはいけないという不文律が成り立ってますから。片や日本のように文科省がこれほど大きな権力を握ってしまって、教育、学校制度の内容全部に口を出して、それを管理するというのは、ほんとに少し奇妙な事態だと思うんですけどね。話題が逸れたついでにさらに言うと、現在日本では、中央政府が私立学校に私学助成金を交付していますが、これは明白な憲法違反なのですよ。憲法第89条にはこうあります。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」(傍点は引用者)。(p.208-209)


アメリカもドイツも連邦制の政治システムが基本になっているので中央集権的に中央政府が何でもやるという形にはなっていないため、文部省もないのだろう。中央政府が国内の統治も一括して行うタイプの政治システムを持つ場合は、文部省のようなものはあるところも多いのではないだろうか。たとえば、フランスには教育省があるし、スペインにも文部省がある。

文科省が権限を持ちすぎているというのは確かで、それは批判されるべき点も多いと思うが、アメリカやドイツのように日本と政治機構が異なるものだけを恣意的にピックアップして述べるのはフェアではなかろう。

私学助成が憲法違反というのはなかなか面白い指摘。



もともとヨーロッパやアメリカでも、デモクラシーという言葉は伝統的に否定的な意味が伴っていました。「デモス」は「大衆」ですから、「衆愚政治」という日本語に近い意味合いで使われていました。今デモクラシーという言葉で語られるような政治的なシステムを指すには「リパブリカニズム(共和主義)」が使われていました。「レス・プブリカ」つまり「一般の人々の手にあるもの」という言葉ですね。十九世紀半ばあたりから少しずつ変わってきましたが。いずれにしても、民主主義というのは政治制度に関する言葉ですよ。ところが、戦後何か絶対的な人間社会の価値を指すように誤解されてしまった。(p.223)


共感できる指摘。

私の場合、政治制度の側面を「デモクラシー」(漢字を使う場合は「民主制」)と呼び、イデオロギー的な側面を「民主主義」と呼ぶという形で両者を切り離して相対化している。

村上の指摘するような混同は日本に限らないのではないかと思う。例えば、国際政治の場で民主化を他国に要求するという形での圧力などは、民主主義の価値観がある種の絶対性を持っていると信じられているからこそ出てくる側面があるし、それを口実に様々な介入をしようとする場合があるからである。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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【2011/02/21 17:46】 | # [ 編集]


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