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アヴェスターにはこう書いている?
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文春新書編集部編 『論争 格差社会』(その2)
まずは、金沢大学教授である仲正昌樹の文章から。ライブドア問題で規制緩和が問題とされたことに関連して、仲正は次のようにを述べた。

問題なのは、規制緩和に伴って出てきそうな不心得者を早期に摘発するための効果的な監視システムが整っていなかったことであって、規制緩和そのものではない。(p.56)



私が知る限りでは、こうした類の問いに対して、まともな回答をもらったことはない。

一見もっともらしい議論に見えるが、あの時点で規制緩和に反対した論者は、そのような「都合の良い」監視システムを作ることなど、到底不可能であるということ(可能であってもかなり困難であり、常に変化する世界の動きに対応する必要に迫られるので、それが持続的に機能する可能性は極めて低いこと)を見越しているからこそ、規制緩和ばかりを急速に進めていくことに対して反対しているはずである。少なくとも私の意見はそうである。

逆にこうした主張をする人々に聞きたいと思うのは、じゃあ具体的にどんな監視システムならきちんと「早期に摘発」できるんですか?ということである。いつでもどこでもどのような不正に対しても、それができることが要求されるが、常に変化する社会の中でそのような事後的なチェックが十分に可能ですか?と問いたい。

規制緩和一般がただそれだけで悪だと決めつけるのは確かにステレオタイプ的思考であり、一種の思考停止だろう。しかし、上記のような点を十分に考慮しないで「規制緩和すればよくなる」とか「規制緩和しなければよくならない」という発想から、それを是認するような風潮がある。これもまた、全く同じステレオタイプ思考であり、思考停止である。今の日本の言論の状況はこうした状態にあり、いずれも誤っている。

ただ、どちらがより間違いが少ないかと言えば、前者の「規制緩和はよくない」という考えであろう。慎重に考慮して規制は強化したり緩和したりしなければならないからである。前者にはそのために必要な慎重さがある。


次は、『希望格差社会』の著者として有名になった山田昌弘の文章。

 格差があるからといって、それが、人々の不満に直結するわけではない。格差が存在しないことが人々のやる気を削ぐことは、社会主義諸国や公共セクターの失敗を見ても明らかである。(p.77)



最初の一文は正しい。続きの文は飛躍がありすぎて話にならない。しかし、現在の日本ではあまりにもよく見かけるタイプの議論であり、人々が漠然と思い描いているイメージを言葉にしている。

はっきり言えば、この漠たるイメージにこそ根拠がないと言える。

「社会主義諸国」ということで念頭に置かれるのは主にソ連だろう。(東欧は日本ではあまり議論に上らない。中国は「市場経済」に移行したと言われる。)そのとき、「ソ連には『格差』がなかったのか?」と問い返すことはしてよいだろう。むしろ、「社会主義諸国」こそ、身分が固定的であって、「身分社会」という「格差社会」の典型である。従って、「社会主義諸国」において「格差が存在しないことがやる気を削いだために失敗した」という論は全く成り立たない。

公共セクターという言葉では、行政機関が念頭に置かれているのだろう。しかし、これもおかしい。行政機関は明確なヒエラルヒーを持つ縦型の組織であり、国家Ⅰ種のエリート官僚とそれ以外(Ⅱ種、Ⅲ種など)の一般の行政官とが別コースを歩む「身分制」である。また、国家公務員と地方公務員でも、事実上、国家公務員は管理や命令する側であり、地方公務員はその下で言われたことを執行するという役割分担が、大まかに言えばある。(地方公務員の中でも都道府県の下に市町村があり、下請け的に位置づけられる傾向がある。)

同じ種類の行政官の間でも、実は中長期的な評価によって、待遇に差が出てくる仕組みになっている。「天下り」なども結局は事務次官になれない人間を官僚機構の外部に出すことによって、官僚機構の自体の健全性を保つための仕組みになっているのだが、そうした点を見てもそれは明瞭である。(まぁ、その仕組みも分からずに「天下り」というだけで「悪」だと思うような思考停止をしている人にとっては、ここで述べたことの意味もわからないかもしれないが。)

このように考えただけでも、公共セクターに格差がないということ自体に根拠がなく、「公共セクターの失敗」が何を意味するかはほとんど意味不明だが、それでも、「格差が存在しないからうまく行かない」のではないことは確実である。

まぁ、以上の2つのことから、「社会主義諸国」や「公共セクター」の「失敗」は、「格差がないことが人々のやる気を削いだ」ことを示す事例にはならないことがわかる。

しかし、本当の問題はここからである。「格差が存在しないことがやる気を削ぐ」というが、「そんなことが言えるのか?」と私は疑っている。

山田がここで「格差」と言っているのは、彼に言わせると「ステイタスの格差」であって、経済的指標で計られる量的格差ではなく、質的な生活状況の格差のことだそうだ。それは「普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差」であるとされる。

そうであれば、その格差は(個人的な力ではなく)社会的な力によって埋めるべきであり、その格差を埋めることによって、下層の人々のやる気が確保できることになるだろう

従って、いかに生活の最低水準を保障し、その上に自らの基盤を築き上げられるようにするかということが政策的な課題となるはずである。最低生活をするために多くのことをしなければならない人ほど、「多様な選択肢」からは遠ざかるのだから
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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