アヴェスターにはこう書いている?
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ジョージ・ミッチェル 『ヒンドゥ教の建築 ヒンドゥ寺院の意味と形態』

さらに三神一体(トリムールティ)という考えがあり、やや重要性の劣る神格のブラフマーが組みこまれている。ここではブラフマーが創造者で、ヴィシュヌは保存者、そしてシヴァは破壊者と見なされている。けれどもこの天界のトリオは、ヒンドゥ教において時折重要視されたにすぎない。(p.18-19)


ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三柱の神が主要な神であるとする説は、ヒンドゥ教を巡ってはよく聞いていたが、これは歴史的にはあまり重要性を持っていなかった神学的見解であるようだ。



 ヴィシュヌの最後の二つの化身であるブッダとカルキンは、おそらく後の時代につけ加えられたものであろう。ここにブッダを含んでいるのは、もともと仏教徒の評判を落とす意図であって、彼らは悪鬼を惑わすためにとられたヴィシュヌの仮の姿に欺かれた者たちである、とされているのである。カルキンとしてのヴィシュヌは馬上の人として現れ、現在の時代の滅亡を予告する。(p.27)


ヴィシュヌの化身に仏陀が含まれているのは、仏教もヒンドゥ教の一派であると考えられているからであるという説明がしばしばなされるが、現在の観念がどうなのかは別として、歴史的にはそれとは違う理由があったらしいということをこの引用文は示しており興味深い。



 ヒンドゥ教の形象美術では、一つの神格を他から区別する手段として肉体的な姿かたちを利用することはめったになく、普通それを見分けるには、像が手にする表徴(エンブレム)を識別することに頼っている。それらの表徴はその神格の威力と本性を象徴しているが、後にはそうした祭儀上の表徴物が、本来属している神像から独立して礼拝されるようにもなった。(p.41)


本書によると、シヴァはリンガという形をとるか、人の姿の場合には三叉戟を手にする姿をとる。また、半頭蓋骨の乞食椀と投げ縄を持ち歩いていることがあるという。

また、ヴィシュヌの表徴としては法螺貝と車輪状の円盤に特別に重要性が付与されているという。

現地で彫刻などを見る際には、こうした図像学的な知識がある程度あると随分見方が変わってくるので、訪問する際には、こうした知識をある程度頭に入れておきたいものである。



 ヒンドゥの寺院建築の歴史を通じて見いだされるもう一つの特色は、寺院表面を飾る彫刻を何よりも重要な視覚言語として強調していることである。彫刻は、ヒンドゥの美術家の精進のまさに根底にあるのであって、建物自体、彫刻されることを求める石の量塊と見なされる。実際、建物の表面を彫刻することは構造的な革新よりも常に好まれ、後者は概して慎重に退けられた。この点、ヒンドゥ建築は〔ヨーロッパの〕ゴチック建築の対極に位置するのである。(p.104)


構造的な革新があまりなされず、表面の彫刻を重視したことは、ヒンドゥ教の寺院がイスラームのモスクやキリスト教の教会堂と異なり、その内部が礼拝空間ではなかったことが要因の一つであろう。



王権と寺院建設のかたい結びつきは、ヒンドゥ圏のアジアにおける変わることのない歴史的現象であり、寺院の様式発展に絶大な影響を与えた。王室の寄進の熱意は地場の工匠たちに励ましを与えることによって、地域的な伝統の興隆を促したのである。確かに、ヒンドゥ寺院の地域的な様式の多くは王朝名と一致することになり、寺院群はグプタ朝、チャルキヤ朝、カリンガ朝、チャンデッラ朝、パッラヴァ朝、チョーラ朝、ホイサラ朝といったグループに分類される。同じことはインドの域外の寺院群にも言えることである。(p.113)


芸術はパトロンによって左右される。また、宗教は政治と常に結びつく。これらはほぼ普遍的な現象と言って良いだろう。

これをもう少し砕いて書くと次のようになるだろう。

誰が芸術に金を払うかによって、芸術のあり方は強く影響を受けてきた。宗教は常にある程度強い結びつきを持つ社会的ネットワークを形成するため、自動的に政治的影響力を持ちうる勢力になるため、政治に常に影響を与えうるものであり続けた。権力側も既に形成されているネットワークであり、しかも上下のヒエラルヒーを有するネットワークであるために、その頂点付近を押さえればネットワーク全体を方向付けることができるため便利だったし、また、歴史的には宗教集団が文字による文化を保持していたため、官僚として宗教者が必要だったという場合も多かったと思われる。



ヒンドゥの寺院建築の根本的な様式上の特色は、おそらく建築的形態と装飾モチーフを選ぶ上での生来の保守主義であろう。(p.114)


この見解は本書の基本的な見解の一つだと思われるものだが、確かにそうかもしれないと思う反面、何かオリエンタリズム的というかかつての「アジア的停滞」という古い観念の残滓をも感じさせる点で違和感を感じもする。

ギルド的なものが存在していたことがこうした保守性の一つの要因だと思われるし、上で引用したように内部構造についてあまり工夫する必要がなかったことも要因であろう。その意味で技術革新などに対して保守的な傾向はある程度あるとしても、それが「保守主義」と呼ばれると先にイデオロギーがあるかのように錯覚させるため用語法としてはやや不適切なのではないだろうか?

また、技術革新の面にしてもイスラームの王朝が成立してからは、アーチやドームの技術を次々と導入したりしており、変化がないわけではない。ドームの形状もペルシャや中央アジアのものよりもふくらみが大きいなど、インドの地域に独特の特徴もある。ただ、こうした傾向は外来の宗教であり、外部の社会とのつながりが大きいと思われるイスラームの方が顕著だったとは言えるかも知れず、それよりは保守的であったという言い方は可能かもしれない。



 ベンガル寺院は北インドの大部分がイスラームの影響下にあった時代に建てられた。そのために寺院は明らかにイスラム風のアーチを備え、おそらくムスリムになじまれていた平面形の上に建てられた。これとは逆に当時のムガル建築は、砂岩や大理石に置き換えながら、いわゆる「ベンガル風の屋根」を利用するのである。(p.218)


こうした相互の影響関係は興味深い。

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