アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤正哲、中里成章、水島司 『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』(その2)

インド洋は、こと商業に関する限り、驚くほど自由な空間だった。このことは、当時のインドの政治支配者たちの基本的な姿勢と関係があるだろう。彼らの関心は陸地での権力闘争に集中していた。たとえば、少し時代はずれるが、有名なムガル帝国の第三代皇帝アクバルにしても、三十歳になって初めて海を見たと言われている。ムガル軍の主力は華麗な騎兵隊にあり、ムガル帝国は海軍という名に値するような海軍力は持っていなかった。
 ポルトガル勢力が進出したのは、このように古くから平和的に商業的競争が行われてきた海域であった。しかしポルトガルは、この海域で確立していた慣行に従って貿易活動をする意図など、初めから持っていなかった。彼らの目的はヨーロッパへの香料とコショウの貿易を「独占」し、莫大な利益をあげることにあったのである。ガマの航海の成功の二年後の1500年、インドに向かったカブラルは、ポルトガル王から、キリスト教信仰の敵であるムスリム商人をすべて追放するようカリカットの王に要請せよ、などという法外な命令をたくさん受けていた。(p.248)


武装されていない空間に、自由貿易的に商業を行っていたのではまともに参入できないが、力づくでも利益を得たいと考えるプレイヤーが参入することにより、悲劇が引き起こされた。

しかし、一面では海からの攻撃に対する無防備さという点でインドの権力者や商人たちにも問題はあったとも言えるかも知れない。彼らに海を支配するという観念がなかったのだろうか?また、技術的にそうした方向への展開が見られなかったとすれば、その理由は何なのか?気になるところである。



ポルトガルは海軍力を背景にインド洋の制海権を掌握し、インド洋貿易の重要地点に要塞を築いて拠点とし、すでに繁栄していたインド洋貿易の莫大な利益の分け前にあずかったのである。(p.249)


弱小勢力であっても、組織的に軍事力を用いることにより、制海権を獲得することができた。こうした総動員体制的なるものを構築したことこそ、ヨーロッパの勢力が世界の海をまたにかけて進出していくことができるようになった要因の一つであろう。



イギリスは、オランダと抗争と休戦を繰り返しながら、当時もっとも利益のあがる貿易が行われていた東南アジアから次第に締め出されていった。有名な「アンボイナの虐殺」(1623年、香料諸島のアンボイナでオランダ当局が、イギリスの商館員10人を拷問し殺害した事件。イギリスが香料諸島を去るきっかけとなった)は、複雑に絡み合う事件の連鎖の一つの輪にすぎない。
 イギリスは、当時のインド洋貿易では副次的な位置にあったインドに活動の天地を求めるほかなかった。イギリスがインド洋貿易に乗り出したころは、幸いにも、ムガル帝国の最盛期に重なっていた。……(中略)……。インドで成功できるか否かは、ヨーロッパ商人の間の力関係ではなく、ムガル宮廷と良好な関係を築き、ムガル宮廷の保護を得られるかどうかにかかっていた。だからこそムガル帝国では、ポルトガルも、オランダも、イギリスも、フランスも、デンマークもそれぞれ貿易活動を続けることができたのである。このような事情が、東南アジアで敗退したイギリスがインドで踏みとどまるのを可能にしたと考えられる。(p.254-256)


なるほど。ムガル帝国のある種のリベラルな姿勢が当時のイギリスのような弱小勢力がその地で生き延びることを可能にした要因の一つだったわけだ。そして、ある意味ではオランダに東南アジアで負けてインドに活動の天地を求めざるを得なかったからこそ、そこでの活動に力を入れることになり、しまいには植民地とするにまで至ったのだとすれば、ムガル帝国のリベラルな姿勢は巡り巡って自らを滅ぼすことになったと言うこともできるのかも知れない。



 地方都市の問題は、イギリスがなぜ比較的容易にインドを植民地化できたのかを考えるとき、疑問を解く一つの鍵を提供してくれる。というのは、イギリスがインドを経済的に搾取するシステムをスムーズに展開できたのは、地方都市に住む商人たちのネットワークがすでに存在し、それを利用することができたからだと考えられるし、また、急速に拡大する支配地域に行政機構を順調に整備できたのは、地方都市で行政経験を積んだ役人層を取り込むことができたからだと考えられるからである。(p.338)


興味深い指摘だが、広大な領域の支配というのは得てしてこうした土着の要素を利用するものにならざるを得ないだろう。基本的に社会は急激には変わらないものであると考えるべきである。



多くの場合、インド人の住む旧市街から少し離れたところに軍隊の駐屯地(カントンメント)を置き、この駐屯地を中心に西欧風の市街をつくり、イギリス人をはじめとするヨーロッパ人が住むということが行われた。しかしこの場合でも、駐屯地は旧市街と隣り合っているだけで、旧市街との関係が薄いという点では、カルカッタのような大植民地都市と似た性格を持っていたと言える。(p.342)


インドの都市にはよくカントンメントという地区があるが、それはこうした歴史的経緯を持って形成された地区なのだろう。旧市街との関係や違いなどを実地で観察してきたい。



 しかし近代と言い、近世と言っても、それは、われわれが当時を振り返ってわれわれの立場から歴史像を構成し、そのイメージに十九世紀以降に発達した近代歴史学の時代区分論を当てはめて議論しているにすぎない。(p.679-680)


時代区分論や王朝毎に区切られた歴史叙述などは事実を認識する上でむしろ邪魔になることが多い。これらの枠組み自体が既に高度に理論負荷されており、そのことに対して自覚されていることが少ないからである。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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