アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その4)

 もうひとつ、カルカッタにはデリーのように牛がいない。野良犬が若干と、ヤギが少々いるだけである。
 あとでラジブ夫妻から聞いた話では、ニューデリーは1970年代から80年代に急成長した町で、もとは村だった地域が多いため、住民がいまだに牛を市内で放牧しているのだそうだ。ラジブ家のあるディフェンス・コロニー地区も、今は住宅でいっぱいだが、70年代まではほとんど草地だったそうである。そして政府は、聖なる動物である牛が交通事故死したりゴミをあさったりしている状況を憂慮して、牛を郊外に出す政策をとっているとのこと。そういえば佐藤氏も、彼がはじめてインドを旅行した六年前にくらべ、デリーの牛は減ったと話していた。
 つまり「デリーの市街地に牛がいる」という現象は、「インドの文化」などではなくて、急速な近代化の副産物として近年になって出現したものだったわけで、当のデリー市民も困惑しているのである。そして、おなじくインドでも古くから市街地だったカルカッタには、牛がいないというわけだ。安直に「インドの文化」などと思ってしまっている現象には、意外とこういうものが少なくないのかもしれないと反省する。(p.164-165)


カルカッタとの比較によってデリーに起こっている現象――「インドの文化」として理解されがちな市街地に牛がいるという現象――を相対化している。



 「様式が西洋風で材料は伝統風」というのは、アジア諸国のナショナリズムに共通の現象である。伊藤博文は、ヨーロッパ諸国が君主の名所旧跡を保存していることを参考にして、日本の名所旧跡を保存する提案を行なった。「伝統文化を国家や民族のシンボルとして大事にする」という発想じたいが、西洋から入ってきたものだったといえる。(p.168)


日本でも国宝とか国指定重要文化財といったものはこうした流れの中で制定されていったのだろう。

最近私が気になっているのは、「近代化遺産」とか産業遺産への関心が90年代頃より高まりつつある(最近はやや下火になってきたか?)という現象で、これもやはり90年代以降のナショナリズムの高まりと同根またはその結果的な現象だと捉えることができるように思われる。

ただ、産業遺産への回顧に関しては、「地域活性化」というモチーフが比較的強く含まれており、また、工業が次第に新興国で行なわれるようになっていくことに対する危機感から「ものづくり」を強調して、第二次産業を国内で重要なものであるとして位置づけようとするモチーフも含まれていると思われる。この意味では、金融グローバル化に付随する反動的現象として産業遺産の見直しという気運が生じているように思われる。もっとも、これを見直したところでグローバル化の流れを変える方向には作用しないだろうが。



 そして中村上人は、「一つのアイデンティティに固まる原理主義は、人びとのパワーを引き出すこともあるが、とても危険だ。オウム真理教や大日本帝国がそうだったように」と強調する。彼が代わりに提案するのは、「アイデンティティの複数化」だ。「自分は仏教徒でもあるけれど、日本人でもあるし、東京人でもあるし、インド人としての感覚ももっている。先進国の人間でもあるが、スラムに長く住んだこともある。男でもあり、宗教者でもあり、国籍は日本国籍のままだが、ここデリーのコミュニティの顔役でもある。『私は仏教徒だ。だからキリスト教は敵だ』というふうに、どれか一つだけのアイデンティティに固まってはいない」というのである。(p.210)


「アイデンティティの複数化」という提案は、本書を読むことを私に勧めてくれたかつての友人も本書か小熊英二の影響で強調していたことだった。この箇所を読んだ時、「あぁ、彼が普段言っていたことが書かれている箇所だ」と思ったので思わず引用してみた。

私に本書を読むことを勧めてくれた友人は既にこの世にいないが、彼も同意している「アイデンティティの複数化」に対して私は批判をしたことがある。それは次のような内容だった。確かに人間は一つのアイデンティティだけをもっているわけではないため、複数化して捉えること自体は間違ってはいない。しかし、複数化しても、一つ一つのアイデンティティが同じ重さを持っているという保障はない。例えば、あるアイデンティティはその人にとって強い利害関係を発生させるが、別のアイデンティティはほとんどそうした利害関係を発生させない場合、その人は前者のアイデンティティを強く意識するようになる。ナショナリズムの面倒な点は、こうした利害関心と深く結びついているがゆえに、複数あるアイデンティティのうちナショナリティが突出した重みを持つもとして意識されがちであるところにあるのであり、単に複数化によって相対化を試みてもそれだけで原理主義的なナショナリズムを止める力にはなりえないだろう、というものであった。



 「宗教者が『魂の医師』であるように、人文社会科学の学者は『意識の医師』であると思っています。人は近代社会の不安に耐えきれず、何らかのアイデンティティを求めようとする。それは人間の業のようなものですが、まかりまちがえば、原理主義やナショナリズムのような、極端なアイデンティティにはまりこんでしまう。それはいわば『意識の病気』です。そういう病気から回復することを助ける医者として、学者はいるのだと思っています。」(p.214)


人文社会科学の学者は「意識の医者」であるというのは、なかなかうまい表現である。私自身も社会科学から「意識の病気」にかからない方法や「病気の識別法」などを学んだという自覚がある。



 安いから留学生が来るというのはあまり名誉なことではないかもしれないが、日本の大学よりはましな状況だと思う。なにせ日本に留学しても、苦労して日本語を勉強したあとで、読まされるのは欧米の本の翻訳だったりする。そういう国の大学に、しかも物価も高いのに留学する外国人は少ないのである。(p.242-243)


私がよく話をする留学生の状況がまさにこれなので、その人のことが可哀想に思えてきた。



ハーンが再評価されるのは1920年代後半以降で、昭和の国粋主義台頭とともに、「日本の伝統を再発見してくれた欧米人」として有名になった。(p.243)


ラフカディオ・ハーンは当初は単なる変わり者扱いされていたという。国粋主義の推進の方向に利用できるため、彼が評価されるようになった。



 今日の講義は、現代日本事情の一環として、太平洋戦争が現代日本の文化や価値観に与えた影響について私なりの考えを述べた。この戦争で、日本政府は「アジア解放の正義の戦い」というスローガンを掲げたが、結果として当時の日本人口の約四パーセントが死亡し、多くの人が家屋や財産を失った。
 当然ながら、このことは強烈な心理的影響を残した。まず政治においては、「強力なリーダーシップ」とか、「アジアの団結」とかいったスローガンにたいする警戒感や、強い平和志向を残したこと。この平和志向は、戦後日本でガンディーを非暴力主義の象徴として有名にすることに、一役買ったと思われる。しかし文化に対するより目立たない影響としては、「正義」や「戦い」への屈折感をもたらしたことである。
 この話をするにあたり、私は黒澤明監督の『七人の侍』の話をした。この映画は、戦争の傷がまだ癒えぬ1954年に公開されたもので、「男らしさ」の好きな黒澤が、いわば「正義の戦い」を描こうとしたものである。しかし、「正義の戦い」を描こうとすると、戦後の日本ではどうしても近代戦争ではなく、時代劇かSFになってしまうのだ。
 ……(中略)……。
 このような描写の背景には、「正義の戦いであっても、軍隊と民衆の対立はつきものである。勝利したとしても大勢の犠牲が出る。そして、よく戦って負けた側はなにも報われないが、彼らこそ真の勇者である」という屈折した戦争認識とヒロイズムが存在する。……(中略)……。
 こうした「正義」や「戦い」への屈折した感情は、その他の日本の映画やアニメにもみられる。……(中略)……。未来戦争を描いたようなアニメ作品でも、政治的背景の設定が複雑で、どちらが正義かはっきりせず、敗北する敵側の人物が主人公よりも魅力的に描かれたりする。
 そしてくりかえしになるが、これらが「芸術作品」として知識層にだけ評価されているというのではなく、大衆や子供向けの映画や漫画として人気を得ているところがすごいのである。それにくらべると、インドの大衆映画は、「善は美しくて勝つ、悪は醜くて負ける」という筋のものが多く、日本で公開されるとあまりの単純さに観客が笑ってしまうほどだ。太平洋戦争の敗北は、「正義とは何か」あるいは「戦いとは何か」という哲学的問いを、日本の全国民レベルに強いたといえるだろう。日本のアニメや漫画が国際的に評価されるのも、一つには戦争が戦後日本に与えた屈折が一役買っているのではないかと思う。(p.252-254)


なかなか興味深い考察である。

2番目の段落で述べられていることについては、ここ数年については「強力なリーダーシップ」が求められ「平和志向」も年々弱まる傾向が見られるところに私としては懸念しているところである。

「正義」や「戦い」への屈折感というのも、確かにそうした考え方は広まっているかもしれないと思える。ただ、それは屈折感というよりは、事実というものはスローガンで述べられるほど単純ではないということを認識しただけに過ぎないように思われる。



 私の主張では、いわゆる国際化やグローバリゼーションは、ナショナリズムをむしろ激化させる。グローバリゼーションは貧富の格差を広げ、グローバリゼーションから利益を得られる中上層の人びとについてはナショナリズムを減少させるが、残った下層の人びとは中上層階級への反発から、むしろナショナリズムを強めるだろう。また多国籍企業は、国境が隔てる格差(為替レートや安い賃金など)から利益を得るために国境を越えているのであって、国境を廃止しようとしているのではない。そしてマスメディアの発達や地域コミュニティの崩壊は、具体的な地方のアイデンティティを弱め、代わりに抽象的なナショナリズムを強めるはずである。(p.255)


多国籍企業が国境を廃止しようとしているわけではないというのは全く正しい。むしろ、政府の力を利用して利益を最大化しようとするというのが通常の行動パターンである。



 日本の政治家が「アジアの一員」などと主張するのは、もっぱらアメリカに反発を感じたときだ。日米経済摩擦が激化したとき、『NOと言える日本』を出版した石原慎太郎が、続編として『NOと言えるアジア』をマレーシアのマハティール首相と共著で出したことなどは、一つの典型である。こうした政治家や知識人のなかには、ろくにアジア諸国のことなど知らない人もいる。要するに、じつは欧米との関係がまず先にあり、それが悪化したときに、対抗軸として「アジアの一員」などと言いだすにすぎない。しかも日本の政治家が「アジアの一員」と言うときには、日本がアジアのリーダーとして意識されているであろう、と。(p.255)


確かにその通りであろう。ただ、最近は中国を意識して他のアジア諸国との関係強化や環太平洋などの枠組みが論じられることも増えてきたと思われる。


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