アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その3)

インドにかぎらず、元植民地だった第三世界の国境線は、その多くが宗主国が決めたものだ。しかしいったんその国境線に沿って独立すると、あたかも太古の昔から国家が存在したかのようなナショナリズムが生まれてくるのである。(p.110)


その領域内に生活する人にとっては「共通の利害関係がある」という認識が共有される――共有の前提としてマスメディアがある――ために、建国神話が信じやすいものになるため、どこでもこのような現象が見られるものと思われる。



 国際交流基金事務所長婦人の藤岡氏に聞いた話によれば、このダウリーはもともと上層カーストの間で行なわれていた慣習が、インドの国民国家形成とともに下層にまで浸透したものであるらしい。近代日本でも、一部の上層階級の文化が下層にまで模倣され、国民全体の「日本文化」になっていった事例は数多い。江戸時代には人口の六パーセント(数え方に諸説ある)にすぎなかった武士の、しかもそのなかでも例外的な行為として存在していた「切腹」が「日本文化」として有名になったり、江戸の富裕な商人の習慣だった「七五三」が明治以降に全国的に波及したりしたのは、その一例である。
 太平洋戦争時は、農民出身の兵士や将校までが、腹を切って自殺することを「日本の伝統」とみなした。しかし実際の江戸時代では、帯刀は武士の特権だから、農民が切腹することなど許されない。近代社会になって、マスメディアの発達とともに中央の文化が浸透し、また身分制度がゆるんで下層が模倣してもゆるされるようになり、さらに「われら日本人は日本の伝統文化を身につける」という国民意識が形成されるようになると、こうした現象が起きるわけだ。
 インドをはじめとした途上国のフェミニズム知識人にとっては、「伝統といっても、実はその多くが近代以降に創られた伝統だ」という論法は、有用であるようだ。(p.131)


「創られた伝統」論は、途上国の知識人だけでなく、日本の一般人にもいまだにかなり有効な論法だと思う。

この論法に親しんでくると「またかよ」とか思ってしまうこともあるが、逆に言えば、それだけ多くの「創られた伝統」があり、そうしたものが巷に満ち溢れているということでもあるのだから、それらの由来が理解されずに安易に「日本文化」のような括りで捉えられ、そこから誤った推論が行なわれることが多々ある。そうした誤った認識に基づく推論によって安易な「文化」論が語られる場合があるが、それを批判して相手に非を気づかせる時、こうした論法は未だに役立つことが多い。



 こう考えてくると、「伝統の創出」を強調する歴史研究と、ヒンドゥー神話のボキャブラリーを使う女性運動のあり方は、日本からみるとまったく別の現象のようにみえるが、インドの土壌ではどちらも「民衆に受け入れられる」うえで有用だということがわかってくる。イギリスのセンサスや登録で「インド人」や「ヒンドゥー教徒」のアイデンティティができたという歴史研究も、国際映画祭のプレミアム上映会で主演男優氏が述べた「インド、パキスタン、バングラデシュの区別はイギリスがつくったものだ。われわれがそれに囚われて争う必要はない」という言葉、つまりインドにおける常識的通念を、学問というかたちで延長した位置にあると考えられる。
 日本では、ポストコロニアル論や「伝統の創出」論などは、もっぱら「日本文化や日本国家という虚構を暴く」というナショナリズムの否定として導入されている。しかしインドでは、ナショナリズムの否定というより、ナショナル・アイデンティティと社会変革を両立させるための緩衝材として機能しているといえる。学問という一見普遍的なものも、やはりその土地ごとの文脈に適応した形態で根付いているのだ。(p.132)


このあたりの議論は興味深いものがあった。張り巡らされている言葉のネットワーク(どのような議論がなされているか)の状態が異なっていると、同じ理論でも異なった位置づけが与えられる。



先日のアミタ女史の反応もそうだが、こちらの観察に違和感を表明される機会に出会うのは貴重。「もうインドはだいたいわかった」などと思い始めた段階が、安直なステレオタイプの形成に陥るいちばん危険な状態なので、少し気をつけることにする。(p.156)


確かにそうかもしれない。人と議論ないし意見交換することの重要性の一つはこうした機能にあるだろう。


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