アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その1)

 「インドには定価はない」といわれる。値切り交渉でまけたり、顔見知りだと安かったりする。もっともこれは日本でも、高度成長期までの農村部などでは、一般的なことだったらしい。……(中略)……。
 インドでも、「貧乏人や顔見知りには安く、金持ちには高く、修道者にはただで」といったそれなりの基準があるそうだ。外国人観光客などは、この基準からすれば最高値の対象となる。
 値切るという行為は、いわばその行為を通して、「顔見知り」になる手間を支払うことであるともいえる。その手間を惜しむなら、金をよけいに払うか、毎日きて自然に顔見知りになって安くなるのを待つかという手順を踏むのだろう。貨幣はすべての価値を数字に換算する強力無比のコミュニケーション・メディアだが、人情や顔見知りといった他のコミュニケーション手段が、貨幣の威力の通用範囲をとどめているわけだ。「定価ですべてが買える世界」は、裏を返せば「たとえ顔見知りでもまけない世界」であり、「人情よりも金ですべてが計られる世界」でもある。(p.16-17)


 最近はだいぶ世界中が「定価ですべてが買える世界」に近づいてきたというか、そうした世界が増えてきたと思われるが、「定価がない世界」ではこうした貨幣の力が限りなく万能に近い状態を制限するメディアが存在する点を指摘しているのは興味深い。また、私もこうした値切り交渉はそれ自体がコミュニケーションであって、売り手との関係性の構築であると考えているので、著者の見解には共感するところが多い。

比較的最近読んだあるインド旅行記の著者はその点に対する理解が全くなく、ひたすらにインドでは旅行者を騙して高い金を巻き上げようとすることに対して苦情を言っていたが、それは見識が狭く、柔軟性を欠く姿勢であると思われる。むしろ、そうした「自分にとっての当たり前」を突き崩し、その意味するところを暴露するところに外国への旅行や滞在の醍醐味の一つはあるのではなかろうか。



 アメリカ映画の一部にも感じることだが、戦争に負けたことのない国の観客は能天気なものだと思う。ただアメリカ映画とはっきりちがうのは、ヒーローやヒロインが危機に陥ると、ヒンドゥー教の神様が奇跡を起こしたりすること。こういうヒンドゥー指向とバイオレンス趣味が一体となってウケている様子は、インド人民党の核武装政策の支持基盤を想像させて気持が悪い。(p.28)


戦争に負けたことのない国の観客の能天気さも問題だが、戦争に負けたことをずっと根に持っている国の執拗さも場合によっては問題になるのが難しいところ。具体的には中国の場合。日本の場合は核兵器を持たないことなどに対するこだわりとして同様のものがあるが、暴力そのものに向かっている点で健全であると判断することができる。中国の場合は「日本帝国主義」なるものを敵として認識しているようだが、それがいつの間にか「日本」になったりするし、当時の日本の軍隊とそれを支持した有権者たちが加害者なのに、その子孫まで敵と認識しているのは、不当であると思われる。なぜならば、犯罪者の子は自動的に犯罪者であるわけではないからである。

引用文後段はヒンドゥー・ナショナリズムとインド映画の受けている要素が同根であることを暗示しており、興味深い指摘だと思う。



要するに、体調がおかしいがゆえに日本食を欲しいとは感じるが、実際に食べてもうまいとは限らないのである。ナショナリズム全般にいえることだが、現状が悪いときにはシンボリックなもの(「日本」)に希望を託すが、それそのものを入手すると期待が裏切られたりする。これは政治運動でも同じで、「日本」に期待した沖縄の復帰運動がそうだった。(p.34)


確かにその通りである。



神道はもともと、アニミズム系の多神教である。いまの日本は結婚式がキリスト教式で葬式は仏式だったりするが、それで神道が弱くなったとはいえない。拝む対象がキツネの神やイネの神からキリストやブッダにいれかわっただけで、神道のリニューアル、ないし適合戦略ともいえる。むしろ、三島のような原理主義者のほうが西洋化の産物であり、彼は服装や住居の点ではきわめて西洋的な人物だったし、西洋の小説の教養をもとに、それと似たものを日本の材料でつくろうとしたのだ。三島の『潮騒』は、彼自身がはっきり述べているように、『ダフニスとクロエ』からヒントを得て書かれた作品である。イスラム原理主義もそうだが、「反動」というのはそれじたい西洋化と近代化の産物なのだ。(p.49)


インドに西欧からキリスト教が入ってきた時も同じように受け入れられていたという報告がある。

反動は西洋化・近代化の産物であるという小熊の主張はこの後も随所に繰り返され、ナショナリストはその社会の最も西洋化・近代化された人物であるなどと言われる。なかなか鋭い指摘である。もっとも、ネイション・ステイトというものがいわゆる西洋化・近代化が目指す体制であるから、当然と言えば当然ではあるが、ナショナリズムは「古いと思われている表象」を利用して創られていくから、一見気づきにくい面があるため、こうした指摘は有用である。



 江戸時代は身分や藩によって分断された社会であり、一目見ただけで、あるいは一言話すだけで、どこの地方のどの身分か、すぐわかってしまう。そういう社会では、身分も地方も超えて「われわれは日本人だ」という意識よりも、「どこそこ村の農民」といった意識のほうが強い。文化にしても、「日本文化」が存在したというより、「京都の貴族文化」や「水戸の農民歌」があったというほうが正確である。
 こういう状態が変化するのが、明治以降。まず何より、生まれによる身分が否定され、また藩も廃止となって、会津の武士も薩摩の農民も、一律に「日本人」とされたことが大きい。またマスメディアや交通の発達の結果として、地方間の移動や情報の流れが激しくなり、そのなかで共通の「日本文化」が発生してくる。江戸地方の料理にすぎなかった握り寿司や、京都の宮廷に献上していた菓子(当然ながら庶民は食べていなかった)が、情報や流通の発達によって全国に広まり、「日本の料理」になるという現象が起きてくるわけだ。
 さらに文化財の保護政策や、国民共通の義務教育も影響する。たとえば明治期には、政治家や官僚たちが中心になって、廃屋同然になっていた興福寺や、真言宗の末寺にすぎなくなっていた法隆寺を再興する動きが起こる。やてそれらは、「京都の仏教寺院」ではなく、「日本の伝統文化」として国定教科書に掲載されていった。こうして、世が世なら寺院の建設に強制労働させられる側だったはずの平民たちまでもが、「京都のお寺はわれわれ日本人の伝統文化」という意識を持つことになる。「日本人」という意識、あるいはナショナリズムは、交通の発達や身分制度の解消といった、近代化の結果として生まれてくるのである。(p.54-55)


簡潔で分かりやすい説明なので人に説明する時に使えそうである。

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