アヴェスターにはこう書いている?
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アラン・バディウ他 『1968年の世界史』
アラン・バディウ 「68年とフランス現代思想」より

デモが暴力的になってしまったのは、警察が私たちを攻撃したからです。このことをあなたの日本の学生たちに伝える必要があります。(p.40-41)


デモ隊による暴力のシーンがテレビなどで流される時、その前に警察の側からの攻撃があったということは隠されることがある。こうした視点を持つことは重要であろう。



というのも、それ以前には、実際のところ権力への従属があったからです。つまり権力が了承すればデモをする。けれども権力が望まなければ何もできないという具合だったのです。68-70年には本当に別の考え方がありました。私たちはデモをすると決めた、権力はそれを望まない、権力はデモを妨害しようとするだろう、けれども私たちはそれでもデモを試みるのだ、と。(p.41)


思うに、こうした「権力への従属」は特に日本では現在でも常態であるように思われる。

また、この従属は現在でも中国にはほとんど完全に近い形で当てはまっているように思われる。当局が望まないデモは行われているのだろうが、それらは報道なども規制されて、存在しないことにされたまま暴力装置によって鎮圧されている。



ひとは忘れがちですが、選挙はまさしく抑圧の手段として利用されたのです。(p.46)


選挙というと、自らの意思で投票先を選ぶことにより、あたかも投票者たちから構成される集団の意思が示されるかのように語られるが、実際にはそのように機能するとは限らず、結果的に投票者たちが抑圧されるような政策がとられることを正当化してしまうことがある。



投票では、人々はいま手元に持っているものを保守することへと、自分の実存の個人的視野へと追いやられてしまいます。そこでは恐怖が決定的な役割を果たします。(p.46)


確かにそうした面はあるように思われる。社会全体のシステムを考えて投票するというよりは、自分の手元の利益を保守しようとするインセンティブが働きやすい。その時に恐怖が役割を果たすというのも、その通りではなかろうか。増税が日本でこれほど悪であるかのように喧伝されているのは、それによる恐怖(正確には不安)を人々が感じているからであろう。そして、どのような恐怖や不安を煽るかによって、世論の動向はコロコロと変わっていくのである。



イマニュエル・ウォーラーステイン 「アメリカの68年【リベラルな社会におけるラディカルな知識人】」より

 知的暴露は、複雑に張られた欺瞞の網の目を払い去るうえで不可欠である。しかし、すでに払い去るべき欺瞞の網の目がほとどなくなっているにもかかわらず、暴露しつづけることにこだわれば、暴露すること自体が自己目的化してしまい、自ら暴露の対象を仕立て上げざるをえなくなってくる。これは魔女狩りである。(p.81)


今は亡き私の友人がかつて自分の知的状況について「自家中毒」に陥っていると嘆いていたことがあったが、彼がポストコロニアリズムなどに傾倒している頃にそれは起こっていた。90年代以降に流行ったこの思潮はこうした「魔女狩り」の傾向を強く持っていた。

知的暴露を初めて経験した時の驚きは病み付きになるものがあり、それを続けることで得られた様々な知見が他人と議論する時に持つ威力に酔いしれると、こうした方向に足を引っ張られることになる。



伊東孝之 「ソ連・東欧圏の68年【改革共産主義の興隆と終焉】」より

われわれはしばしば過去に「現代の起点」を求めようとする。たしかになにかが始まったのかもしれないが、別のなにかが終わったのかもしれない。実は終わったことの方が、始まったことよりも重要であるかもしれない。しかし、終わったことは現代と直接関わりがないので、現代人の目には見えないことが多い。(p.135)


勝利者史観への批判として正しい。また、何かが無くなってしまった事が重要な意味を持つことがあっても、それは意識されにくいという観点も重要。



 ある出来事の意義を語る場合は、誰にとっての意義かということが大切である。(p.135)


こうしたことは社会科学的な言説においては初歩的なことだと思うが、社会に関する言説の多くは特定の政治的な立場から発せられるため、こうした客観性を高めるための基本的な事項は疎かにされることが多く、そうした中においてはこうした指摘を明示することは重要であると思われる。



 なぜ改革共産主義は1968年で死んだのか。それは単に弾圧されたからではない。ある政治体制の生命力はそれに対抗するものでさえも支配的な言説を使わざるを得ないところにある。ところが、ソ連東欧圏の異論派、いわゆる反体制派の言説を調べてみると、この時期を境としてマルクス主義に依拠するものが急激に少なくなっていることが分かる。(p.143)


強調した箇所には納得させられる。政治体制が存在する場に張られる権力が言説空間内にも浸透している場合、その体制を崩すことは「ペンの力」を以ってしても難しい。

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