アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

札幌遠友夜学校創立百周年記念事業会 編 『思い出の遠友夜学校』

教える者の熱と教わっている者の熱。これが互いに触れ合うときは、ピタゴラスもいらぬ。プラトンも無用である。(p.40)


なかなか美しいフレーズである。



人間の楽しみは何といっても気の合う人に会うことである。(p.52)


なるほど。

知的な発見の喜びも、それを誰とも共有できなければその程度は半減するし、何らかの成果を挙げたときにも、それを誰かと共有できなければ、喜びの程度は半減する。

気の合う人と会うだけでは十分ではないとも思うが、気の合う人と会い、交流することは、それ自体も喜びの源泉であると同時に喜びの程度を高める触媒のような働きをするように思われる。



 人生は人との出会いである。特に青年時代の出会いはその人の生涯を支配する。(p.65)


青年時代の出会いはその後の人生を大きく左右するというのは、まさにその通りであると思う。私の場合は大学時代に出会った人々に、「意味の大きな出会い」が多かったように思う。



 新渡戸先生に直接教えを受けました東大・矢内原忠雄総長は、1952年5月24日の東大五月祭の講演で、こう述べておられます。
 「私学は別と致しまして、官学と呼ばれるものの歴史をみると、明治の初年において日本の大学教育に二つの大きな中心があって、一つは東京大学で、一つは札幌農学校でありました。この二つの学校が、日本の教育における国家主義と民主主義という二大思想の源流を作ったものである。(p.158-159)


東大と北大のこの思想傾向は、現在に至るまで存続しているように私には思われる。当然、例外はあるにせよ、大雑把な傾向としては、この傾向はあるのではないかと思っている。



そして戦後、内村鑑三先生の非戦平和の思想は日本国憲法に、新渡戸先生の人を育てるヒューマンな教育思想は教育基本法に結実したと思います。事実、「教育基本法の成立を調べて見ますと教育基本法の生みの親たる教育刷新委員会の委員三十八人中、新渡戸先生と浅からぬ関係にある人達、或は直接の教え子である人達は、少なくとも八人はくだらないのであります。(p.161)


最初の一文は、並行関係ないし対応関係という意味でならば、このように言うことも許されよう。因果関係として語ると問題が生じる。

ただ、安倍内閣の時に変えられてしまった旧教育基本法に新渡戸稲造の思想の系譜が見えるというのは、興味深いことである。



 最初彼は米国ジョンス・ホプキンス大学(Johns Hopkins Univ.)で史学や文学を学んでいたが、明治20年、母校札幌農学校の助教授に任ぜられ、独逸留学を命ぜられて渡欧し、ドイツのボン(Bonn)大学に入学し、ナッセ(Nasse, E.)の下に経済学を学び、翌年にはベルリン大学に転じ、シュモーラー(Schmoller, G.)、ワグネル(Wagner, A.)等の歴史派経済学の泰斗につき農学史及び農政学を学び、続いてプロシヤ統計局に入り、マイツェン(Meitzen, A.)に統計学の教えを受け、22年にはハレ(Halle)大学に移ってコンラッド(Conrad, J.)の下で統計学並びに農業経済学の研究を積んだ。いずれも斯界において一流の碩学であった。
 ……(中略)……。
 更にコンラッドのゼミナールではDie Bauernbefreiung in Japan(日本の農民解放)という1891年(明治28年)コンラッド等の編纂したHandwÖrterbuch der Staatwissenschaften(国家学辞典)に収録されて不朽の労作となった論文を書いていた。(p.198)


このあたりを読んでいて、新渡戸稲造(1862.9.1-1933.10.15)とマックス・ウェーバー(1864.4.21-1920.6.14)は同時代人であるということが強く感じられた。というのは、ウェーバーは方法論争では歴史学派の子であると自認しながらも、その後の議論ではシュモラーとは何度か論争していたりする間柄であり、マイツェンはウェーバーが教師資格請求論文を提出していることなどが想起されたし、ウェーバーも「国家学辞典」には「古代農業事情」を書いているからである。



 農業経済学の名によって専門学が講ぜられたのはわが国においては札幌農学校を以って最初とするが、ドイツのゼミナール(Seminar)を演習と名付けて専門学の教授法にとり入れたのもこのときがわが国における最初であった。そしてその発案者は新渡戸教授であった。(p.212)


このあたりも興味深い。先に引用した矢内原忠雄の言葉として札幌農学校が民主主義の源流であったとされているが、それにも通じる面がある。ゼミナールは教師が学生に一方的に教える授業と比べると、より民主的(非権威主義的)な性格を持つと言うことができるからだ。



先生が開拓使で働いておられたころは、伊達に甜菜製糖工場ができ、最も進んだ製糖技術が採用され、農学校の卒業生の中から優秀な技術者が生まれ、先生の台湾製糖改良事業を助けたのです。(p.222)


ここで「先生」というのは、言うまでもなく新渡戸稲造である。札幌農学校と台湾製糖業の関係には興味を引かれるものがある。私が新渡戸稲造に関心を持ったきっかけは、台湾の友人が新渡戸に興味を持っていたことであった。台湾の製糖業が展開していくと、それに対抗できなくなった北海道の製糖業は立ち行かなくなったのだが、もし、その技術が北海道で研究されていたものもあったり、技術者も北海道で教育された者が多くいたのだとすれば、それは興味深い事実である。



「教えたい」という教員と、「学びたい」という生徒、学生の白熱した交錯の中で教育が成り立つ。無資格学校ではあるが、遠友夜学校はそれを全力で実践した。だが今日、この「教育の原点」が、初等教育から大学に至るまで、見失われてはいないか。(p.285)


あるべき教育の姿の一つを示しているが、この問題意識だけからでは解決策は出てこないように思われる。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/682-f8789398
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)