アヴェスターにはこう書いている?
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酒井一光 『窓から読みとく近代建築』

 窓はまた、ガラスとともにイメージされる。板ガラスは昭和30年代にフロート法で製造されるようになるまで、今日のような均質なイメージはなかった。(p.24)


均質でない歪みのある古いガラスはこの時代以前のものである可能性が高いということがわかる。



石や煉瓦の建築では、積み上げることによって壁を築く。このような建築のつくり方を組積造とよぶ。組積造の建築で窓をつくるには、窓の上に煉瓦を積んでも崩れないようにする必要がある。もっとも簡単なのは、窓の最上部に横長の大きな石をおき、その上に再び石や煉瓦を積んでいく方法である。この横長の石材を楣(まぐさ)という[口絵1]。もうひとつは、窓の上にアーチを組んで上からの重さを支える方法である[写真5]。石や煉瓦の西洋建築は、主にこの二つの方法で窓を築いてきた。その結果、窓の形は縦長が多くなる。横長の大きな窓をとることは構造上、あるいは経済面からも負担が大きかった。西洋で横長の大きな窓をつくることが容易になったのは、鉄やコンクリートなどの材料が大々的に導入された産業革命以降のことである。
 このように大きな傾向をみてみると、日本の伝統建築には横長の開口部が多く、西洋の伝統建築には縦長のものが多いといえる。(p.25-26)


確かに言われてみれば、石造やレンガ造の建築の開口部は縦長の傾向がある。また、日本の伝統建築では大きな屋根や壁が少ないことなどが特徴的だと考えていたが、言われてみれば、壁が少ないことを裏返すと横長の開口部が多いということに通じる。(建物自体がペンシルビルのように縦長になっていなければ。)



 日本の近代建築では、<縦長窓>によって「洋風らしい建築」をつくろうとしていた傾向がうかがえる。しかし窓の開き方をみてみると、明治前半の異人館における木製<フランス窓>や、大正・昭和初期のオフィスビルにおけるスチール製の窓で<両開き窓>が用いられているほかは、<引き違い窓>、<上げ下げ窓>などの「引く」形の窓が一般的だった。これは、本場西洋の建築との大きな違いで、障子や襖における「引く」ことの伝統のためだろう。(p.26-27)


確かに、日本の明治・大正時代の洋館や台湾の同時代(日本統治時代)の洋風建築などは、私が見た限りでは、大部分が縦長の上げ下げ窓であった。そして、ヨーロッパで見た窓は、あまりしっかりは見ていないが、それとは違うもの(外側に開く両開きの窓など)が多いように思う。

当時の日本の人々にとってはやはり、「引く」スタイルの方が馴染みやすかったという見方は、検証は困難ではあるものの、興味深い仮説ではある。



昔の庁舎建築といえば、威厳ある姿とともに、どこか華麗な装飾を身にまとった華やかさを兼ね備えていた。しかし、昭和初期の庁舎建築では建物のファサードが平坦化し、ボックス状の外観を呈するようになる。さらに、工費削減から装飾が省略される傾向が指摘されている。和歌山県庁舎もそうした傾向をよく示した建築といえる。庁舎建築の主役となる表現は、壁面の凹凸を強調したり装飾を多用した時代から、昭和10年(1935)前後にはフラットな壁面が主流になっていった。その結果、単調な壁面に窓の連続するファサードが主役の座に近づいていくことになった。そこでは、連続する窓に仕掛けられたさまざまな工夫こそが、その時代の建築の見どころとなっていく。
 それでは和歌山県庁舎の建築を、具体的にみていくことにしよう。
 この庁舎は鉄筋コンクリート造四階建で、建物中央のヴォリュームを塔のようにやや高くするとともに前方に張りだすことで、求心性を高めている。また、そこを中心に左右に羽を広げたような構成で、県庁舎らしい堂々とした風格を漂わせる。(p.48)


鉄筋コンクリートの普及や、それと呼応するインターナショナルスタイルの流行とも関連があると思われるが、本書でしばしば指摘されるとおり、この時代の日本では戦争のための資材統制があり、それがこうした装飾の簡素化などに影響していると思われる。

引用文後段の和歌山県庁舎の説明文を読んで気付いたのは、先日私が若干調べた小樽の市庁舎(昭和8年竣工)のパターンとも似ているということであった。(ちなみに、上野駅や小樽駅や台南駅のファサードも似たような構成である。)ただ、小樽市庁舎は若干の装飾が残っている分、和歌山県庁舎(昭和13年竣工)より古いスタイルだということになるだろう。



幕末から明治初期のヴェランダ・コロニアル建築は、旧グラバー邸や泉布観のように建物の三方、あるいは四方にヴェランダが巡らされていたが、時代が下り明治中・後期になると南側だけにヴェランダを残す形に変わっていった。これはヴェランダ・コロニアル建築がもともと熱帯の植民地に適した形であり、夏はともかく冬は寒冷な日本の気候風土に必ずしも適さなかったためである。(p.70-71)


先日台湾に行った際に、こうしたヴェランダ・コロニアル建築を幾つか見てきた。強い日差しをさえぎる広いポルティコがあることは、居室内を涼しくし、また、ヴェランダでも日差しを避けて過ごすことができるなど、気候に適合したものであったが、日本の気候には適合しないだろう。日本では比較的短期間の間に変化したと言えそうである。



 フラットな壁面を持つ箱形の銀行建築で、要所だけに装飾がある建物といえば、昭和初期の中でも、次第に資材が限られてくる昭和10年(1935)前後の特色である。(p.87)


上に引用した官庁建築の変化と対応している。戦時の物資統制の影響。



なぜならば、当時の満州は本土の建築潮流から距離をおいた自由なデザインが可能であり、諸外国との交流も大変盛んで、建築技術も本土では実現していないものが試みられていた。それゆえ、創作意欲に富んだ若き建築家にとって、満州は魅力的な土地柄に映ったであろう。(p.137)


建築家・安井武雄が南満州鉄道に入社したのは明治43年(1910年)だから、引用文の「当時」というのは、明治末頃のことだろう。その時代の建築は現在の中国東北部にどのくらい残っているのだろうか?機会を設けて数年中に見て来たい地域ではあるので、今後、チェックしていきたい。


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