アヴェスターにはこう書いている?
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羽入辰郎 『マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男』

 ここで一つ確認しておきたいことがある。マックス・ヴェーバーというこの男は学者になりたかった男ではない、といことである。学問などというものは暇人の余暇の産物にしか過ぎない、男子たるもの、より実践的な職業に就くべきであるという観念を、この男は終生抱いていた。(p.80)


実践的な職業に就くべきであるという観念を抱いていたのは確かだが、それを強く熱望していたとも言えない部分があるように思われる。本書は、「学術書ではない」という逃げを述べてはいるものの、やはり決め付けが多すぎるのは読んでいて気になるし、研究者が書く文章としてはいろいろと疑問を感じさせる部分が多い。一言で言えば、著者には客観的な認識や叙述をする能力が不足しているように見え、書かれていることが信用できないのである。



これは、これまでヴェーバー研究者の誰からも注目されてこなかった事実であるが、ヴェーバーは何と、母の死後、講義が出来るようになるのである。(p.91)


母の死と講義が出来るようになることの関係については、確認してみる価値はあると思われる。また、講義が出来るようになったのはこの時以降だけではないだろう、という点では留保を要するようにも思われる。

ウェーバーの人格形成や病状との関係において母との関係が何らかの否定的な影響があるという「仮説」だけは、本書は参考になる部分がある。まぁ、世の中の殆んど全ての人について父や母からの「悪影響」を見出すことは容易であるから、却って、ウェーバーが特別に強く「悪影響」を受けたということを論証するのは容易ではないだろうが。



 要するに、『倫理』論文というのは、自分は「宗教改革の思想内容」に対しては価値判断はしないと断言しておきながら、その裏で、ピューリタニズム、とりわけ、カルヴィニズムを貶めるような価値判断を、あちこちに滑り込ませている論文なのである。
 ではこの価値判断は誰に向けられていたのであろうか。
 一人しか考えられない。母ヘレーネである。
 つまり、『倫理』論文というのは自分の母親の宗教思想を貶めようという隠れた意味で書かれた論文なのである。(p.120)


『倫理』論文(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)がプロテスタンティズムに対する否定的な評価を含むという点は羽入が鬼の首を取ったかのように勝ち誇るまでもなく、最近20年くらいのウェーバー研究ではいくらでも指摘されていることである。ただ、それを論証するプロセスについては、羽入のものは杜撰であり水準が低いとは思う。私見では、ウェーバーが記憶に頼って物語の引用をしていると思われる部分を、引用された物語の原文と筋が違うと羽入は指摘し、それをもって「隠れて価値判断をした」と非難しているように思われる。

100年前には社会科学は現在のように制度化が十分に進んでおらず、論文を書く際のルールも現在より遥かにルーズだったと思われることなどが考慮に入っていないのは、アナクロニズムではないか。現在のルールが存在しなかった当時に持ち込むのは非常に自己中心的な評価基準であると言わざるを得ない。羽入のこうした自己中心性は、上述の客観性の欠如と同根である。

ウェーバーの禁欲的プロテスタンティズムに対する評価はアンヴィバレントなものであったと評価するのが妥当だというのが私見である。

また、羽入は、プロテスタンティズムへの否定的な価値判断が母に向けられたものであると決め付けているが、この決め付けが十分な妥当性を持つためには、ウェーバーの近くに母親以外にプロテスタントがいないということが前提となる。そうでなければ、もっと遥かに多くの傍証や証拠が必要とされるはずである。羽入はそれを示すことなく、彼が作った物語の中の登場人物の中で敬虔なプロテスタントは母(と母の姉・イダ)だけであるということから飛躍した結論を得ようとしているように思われる。



 ヴェーバーは講義が出来ない状態にあった時にも、父親のテリトリーである講演・新聞・裁判等での論争では、難なく成功している。失敗しているのは「職業としての学問」のみなのである。だとしたら母親に原因があると考えざるを得ない。(p.184)


前段はそれなりに興味を引く。後段は羽入には毎度のものである論理的飛躍である。父=政治、母=宗教というステレオタイプを前提として、一方でなければ他方以外には選択肢がないかのような論法は明らかに不当なものである。ステレオタイプの妥当性のほか、一方と他方以外の選択肢の存在をはじめから無視しているからである。本気でそのような思考をしているのだとすれば、羽入に対しては学者としての資質を疑わざるを得ない。



本書の序において、羽入はウェーバーが『プロ倫』で資料の改竄やでっちあげをしたと主張した上で、そうせざるを得なかった理由を問題であると設定し、その結論として、ウェーバーは母とは考えが違うにもかかわらず、母に取り込まれてしまい、逆らえなかったために、彼女の価値視するプロテスタンティズムを貶めようとして書いたからであるとまとめられるかと思う。しかし、それがどうして「改竄」や「でっちあげ」と言う形をとるのかについてはまったく説明になっていないし、問題意識であるとして宣言されていることと実際に書かれていることの間かなりズレがあると思われた。問題意識は建前であり、単に、かつて社会科学の分野の一部で崇拝されていたウェーバーという人物をこき下ろしたいという欲求に突き動かされているだけであるように思われる。彼の客観性のない叙述には私怨のようなものすら感じられる。

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