アヴェスターにはこう書いている?
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増田彰久 『カラー版 近代化遺産を歩く』(その2)

明治十一年(1878)に野蒜築港は起工、明治十五年に完成した。竣工した突堤は、その二年後の明治十七年九月の台風によって流失し、壊滅的な打撃を受け、せっかく築いた港は完全に崩壊してしまった。港をきちんとした形にするには、外港に防波堤をつくる必要があることがわかり、その費用を計算すると莫大なものになることから、政府はこの復興を断念し、日本初の近代港は事業半ばにして放棄されてしまった。外海に面した近代港の建設は困難を極めたのである。日本最大の生糸の輸出港にしようと考えたわけだから、このプロジェクトが成功をしていれば、野蒜は横浜をしのぐような町になっていたのだと言う人もいる。当然だが、まだ横浜には港の計画すらなかった時代のことである。(p.122-123)


港の建設が如何に難事だったかが推し量られる。

日本において日本人技師(廣井勇)の手で初めてコンクリート造の防波堤が成功を治めたのは、明治41年完成の小樽港の北防波堤。明治20年代に計画され、明治30年に着工、明治41年に完成しており、それは現在も現役である。野蒜築港の完成から26年後のことであり、防波堤建設技術の導入にはかなりの日時を要したことがわかる。



明治のころの、このような技術は、ハイテクではなくてローテクなだけに、ゼンマイ時計の動く原理がわかるレベルで、現場を見せてもらうと「なるほど」と納得できる。私には近代化遺産のこんなところも魅力的でおもしろいのである。(p.128)


これは明治に限らず、昭和初期の頃くらいでも同様のものが多くあると思う。近代化遺産などを見る際の一つの楽しみ方として納得できる話である。



明治以前は倉庫は土蔵のようなものが多かったが、新しい建材が入ってくると共に、新しい形の倉庫がつくられるようになっていった。(p.138)


日本国内でも用途などに応じていろいろな形のものが作られたと思われるが、外国のものとも比較しながら見てみたいものである。



 倉庫の数多く残っている街としては北海道の小樽がある。小樽運河沿いにある石造りの倉庫群が保存され、再生されている。
 この石の倉庫は有名だが、この倉が、ただの石造ではなく木骨石造であることは、あまり知られていない。石だけを積み上げて、あれだけ大きな物をつくるということはなかなかできない。構造体としては建物の内側に木で躯体が組まれている。石壁の内側に柱を立て、その間をカスガイでつなぎ一体化している。中に入ると木骨石造でつくられていることがよくわかる。この工法は、明治のかなり早い時期に、横浜の居留地で使われ、古い横浜駅や新橋停車場なども、この工法で建てられたのである。文明開化の有名な建物が、この工法でつくられたと聞いて驚いた。しかし、明治の十年代に入ると、この工法は突然に消えてしまい、わからなくなってしまうのである。いかにも開拓時代のアメリカで発達した石造の技術であるという人もいるが、なぜ、消えてしまったのか、はっきりしていない。(p.145-146)


小樽の倉庫群が木骨石造であることは別の本などから知っていたが、この工法が横浜などで使われ、明治十年代に姿を消してしまったというのは知らなかった。

小樽に残る木骨石造倉庫のうち、現存する最古のものは明治22年の広海倉庫であり、ここで消失してしまったとされる年代よりも後のものである。そして、小樽ではその後も大正時代まで造られている(昭和に入ってもあるかもしれない)。北海道のような植民地ないし開拓地では短期間で安価に建築でき、さらに耐火性も優れているこの工法が適していたと考えられるが、小樽以外の地ではどうだったのだろうか?また、消えてしまった理由はどこにあるのだろうか?地震なども関係しているかもしれない。(北海道の日本海側は相対的に地震が少ない。)社会経済的要因なども気になるところである。

ちなみに、木骨石造については、ウィキペディアでも「木骨造」という項目で「中世ヨーロッパにおいて盛んに作られた。日本では、明治期に西洋建築を模倣した建築物に盛んに用いられた。壁体には煉瓦や大谷石が用いられた。また倉庫などには、伝統的な土蔵造に組積造の壁を取り入れた和洋折衷の木骨造も用いられた。」などと簡単な叙述があるだけで、あまり詳しく解説されていない。



 産業革命はヨーロッパの文化に大きな変化と影響をもたらしたが、温室もその一つである。西洋と東南アジアとの交流が盛んになり、物資が行き来するようになると、熱帯地方の動物や植物をヨーロッパへ持ち帰るようになった。貴族やブルジョワジーたちの新しい趣味として、色鮮やかな小鳥を収集したり、熱帯植物を育てることが流行した。
 貴族たちは競って大きな温室を建て、そこへ多くの賓客を招き温室の中でパーティを開き、熱帯趣味や異国情緒を味わったりした。温室を持つことは貴族たちのステータスシンボルにもなった。それは産業革命で生まれた強い鉄と大きなガラスが可能にしたのである。(p.191)


確かに言われてみれば、温室というものは、あまり古い時代には見当たらないようだ。欧米諸国の勢力による帝国主義的な世界進出に伴って現れたと言えそうである。

今では当たり前のものとして、あまり疑問に思わない建物も、実はそれほど古い歴史を持たないものというのは、かなりあるように思われる。こうした視点でものを見ると、普通に街歩きをしていてもいろいろと新しい発見がありそうである。

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