アヴェスターにはこう書いている?
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立岩真也 『唯の生』

 私はこれに賛成できない。ただ法案に反対するのはそう難しくないが、これを支持する人、反対しない気持ちの人に何をどう言うかはそう簡単ではない。この法案を考えた人が戦略家で賢かったということではまったくないのだが、安楽死・尊厳死の思想はうまくできている。様々に考え方が違う人たちが、これについては賛成してしまうような仕掛けになっている。そこで、このような法律ができることについて、かなり多くの人はあまり問題を感じない。だから、幸か不幸かこんな法案に問題を感じてしまう人は、問題であるというその感じを共有してもらうには、それなりの工夫がいるということでもある。(p.73)


2005年の尊厳死法案についてのコメント。これと同じようなことは、新自由主義的な言説の大部分にも当てはまるように思われる。



 まず「過度な延命措置」という言葉がよくわからない。「無駄な延命措置」という言葉もよく使われる。(p.76)


ここでも安楽死・尊厳死を巡る言説と新自由主義的な言説の間には重なるものがある。これは「無駄遣いをなくせ」という財政の削減を論じる「お決まりの論調」と同じではないか。



次に、当然、自分で決めることと自分で行なうことは等しくないのだが――他人にやってもらうことを自分で決めることがもちろんある――そのこともあまり言われない。(p.105)


あまり気づかれることのない、見落とされがちな区別であり、その意味でこうした指摘は稀であり重要であるように思われる。



 まず、削減は必ず無駄の削減として言われる。必要なことはするとは、必ず、誰でも言う。財政の現実を懸念する人たちであっても、もちろん必要なものは必要であると必ず言う。そしてそれにもっともなところもある。無駄は必要でないものなのだから、その言葉の定義上、なくしてもよいものであり、なくした方がよいものである。そのことには誰もが反対しない。反対しようがない。そしてそれを言う人は、そのことを信じてさえいる。
 ではどれだけが無駄なのか。その度合いははっきりしない。必要なものも切り詰められてしまうのではないかという疑念が呈されることもあるが、それが一般的な懸念として示される限りは、それにはきちんと対応するなどと言われて、話は一段楽してしまう。(p.186)


まったく同意見である。

最低でも「無駄」とは何か定義するか、あるいは、具体的なものを挙げて、それがなぜ無駄なのかを説明した上で削減という話をしなければならないはずであり、それらが無駄であることの挙証責任は削減しようとする側にある。それのない一般的な削減論は門前払いすべきである。

ちなみに、「事業仕分け」では、そうなっていないところに問題があるように思われる。つまり、事業を行なう側には、まだ行なわれていない事業なども含めて有用であることを論証する責任があるのに、仕分け人の側にはそれに疑問を呈するだけでよく、「無駄」であることを挙証する責任がないという非対称性がある。



「弱者」から多くをとってはならないということにはなっていて、それで負担についていくらかの減免の策がとられることがある。しかし、そうでない――定義上大多数の――人たちについては均等の負担が求められる。ならばたしかにあまり多くを徴収することはできないと思われる。そうして、実際にはさほど金のかからない、そこでたいしたことのない制度ができてここにある。それが前提となって、さらに、大勢としての事態は進む。こんなことが繰り返されている。(p.201)


介護保険制度などで負担が定率ないし比例的であることによって給付水準が抑えられ、一度できてしまった現実によって負担が高くなることは忌避され、給付水準を抑えようとする圧力が継続するといったところか。

介護保険にかぎらず、日本の社会保障における「過度の保険主義」はこうした現実の積み重ねから成り立っているところがある。



分け難いことは、分けることが無意味であることを意味しない。(p.326)


重要な指摘である。

相対的に優秀な社会学者はこうした区別をきちんとする傾向があるように思われる。社会学という学問領域が扱う対象の複雑さと一定の実効性ないし有効性を求められることがその要因であると思う。哲学や文学のようなところだと、実効性とはあまり関係がないから誤魔化しやすいし、社会というよりモデルを優先しがちな経済学などでは、こうした複雑な事態は避けられることもあって、こうした面倒な区別には思考が及ばない傾向があるように思われる。



 私たちはしばしば「滑り坂」の話しをする。いったん何かを認めると、それに近い他の(認めてならない)ものを認めてしまうことになるから、ここまでは認めるといった話はしない方がよいと考えるのである。そのように考えるのにはもっともなところがある。けれども、それは逆の事態を招来することもある。つまり、ならばいっそすべてよいといことにしようという話にもなりうるということだ。ある部分について、これはやはり認めてよいのではないかと思う時、部分を区別せず、みないっしょに扱おうとしたら、他の部分も認めてよいという主張は力を得ることになる。(p.327-328)


なるほどと思わされる指摘である。新自由主義であれ共産主義であれ、原理主義的な主張をする動機としてこうした要素がかなりの程度あるように思われる。

そして、そうした原理主義的な運動はしばしば失敗に終わることが多いように思われるが、理論面ないしイデオロギー面では、ここで指摘されているような弱点が一つの要素をなしているように思われる。逆の主張が同じ程度の妥当性を持って主張されうる場合があり、広範な支持を得られないことがある。

私自身の議論を反省すれば、以前、私も官僚制批判をよくやっていたが、数年前にそれがネオリベの主張を利するだけであると考え、それ以後、それらの批判を控え、まともな理解に立たない官僚非難ないし官僚制非難に対する批判を気づいたときに書くようにしたという経緯がある。これもある種の「滑り坂」論的な対応ではある。ただ、あえて自らの主張を積極的に書かないというのは、分かりにくくもある。そうした点なども踏まえて、(10年近く前とは変わっているところもあるはずでもある)自分の考え方を再度整理する必要はあるのかもしれない。

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