アヴェスターにはこう書いている?
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『現代思想 2009年9月号 特集…ガリレオ』
立岩真也 「『税を直す』+次の仕事の準備」より。

 すくなくとも争いをしようというのであれば、何を争っているのかわかる争いをした方がよいし、争うに足る争いをした方がよい。
 税に関わるところだけ少し続けよう。誰もが同じぐらい使う財について、誰からも同じだけその費用を取って、その費用を支給しても、あるいは政府がその財を購入して現物でその財を支給しても、それは――かなり乱暴な言い方であるのは承知しているが、基本的には――何もしないのと同じことである。……(中略)……。そしてこうした部分について、国民負担率が大きくなるとかそうでないといった議論にどれほどの意味があるのか、押さえておいた方がよい。すくなくともここでは分配は行なわれていない。(p.27)


「国民負担率」は、税・社会保険料などの税率の構造や給付の内容によって意味が変わるというのは、あまり指摘されないが重要なポイントである。

社会保障費の財源に一定税率の消費税を充ててもあまり意味はないといえる。



高橋憲一 「パラダイム・シフトとガリレオ」より。

ガリレオがアルキメデスのパラダイムに従って歩んだ方向に科学者集団が新たに形成され、概念と言語が開発されるときに、パラダイム・シフトはその全貌を現すのである。(p.109)


パラダイム・シフトとは個人の心の中の価値観の変化のようなものというよりは、科学者集団間の勢力関係の布置の変化である。複雑ネットワーク研究のパラダイムを使ってパラダイム・シフトを研究すると面白そうである。



原田雅樹 「ガリレイの幾何学的運動論の哲学的遺産 幾何学における意味の始源と概念の弁証法的生成」より。

デカルトのように、方法論をまず確実に打ち立ててから、知を出発させるというのは無理であるというのがスピノザの主張である。……(中略)……。一言で言えば、スピノザによると、方法は、知に対する反省であり、知の前にやってこないということである。(p.143)


方法は知が作動する前にはないというのは妥当であろう。ただ、ひとたび反省により方法論が打ち立てられた後に、その方法論に基づく探求によって新たな知見が得られることはありうるし、それによって知のあり方や方法論にも変化が生じることはある。



汪暉 「琉球 戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」より。

ただ、今の私が思うに、北海道と琉球という、明治時代になってはじめて日本の版図に編入された二つの地域に向かわなければ、現代日本の理解について、やはり不足するところが多々あっただろう。(p.206)


最近の私の着想と重なるところがあり共感できる。ただ、私はまだ沖縄研究にはまだ着手できていない。当面は北海道を一つのフィールドにしようと考える。



「尊皇攘夷」は19世紀後期になると、西洋帝国主義の対アジア浸透に対応したものといよいよなっていった。しかし、当初それは主にロシアに焦点を合わせたものだった。北海道旅行の際、オホーツク海峡の海岸に立ったが、現地での観察と体験のうち最も強烈だったものとは、北海道が中国と日本、ロシアの間にあるということだった。北海道の多くの近代建築は、銀行・漁港・漁業倉庫から、より重要な交通施設まで、全て1906年に建設が開始されたものであった。その理由が、日露戦争(1904-1905)終結後、日本が自らに自信を持つようになったことにあるというのははっきりしている。それ以前に北海道はすでに植民地化されていたが、大規模開発は行われていなかった。この時期になって、日本近代化の一つの波を、すなわち日清戦争から1905年の日露戦争までをくぐりぬけることで、日本は列強に肩を並べうる資本を有するようになった。日本の帝国主義的性格の膨張はこの時期により明確になったと言って良い。(p.206-207)


尊皇攘夷が当初はロシアに焦点を合わせていたとは知らなかった。ただ、言われてみれば、幕末期の日本における外国の脅威としてはロシアによるものが比較的早く、実際の脅威も大きかったと言って良い。蝦夷地を江戸幕府が直轄地にしたことなどにそれは端的に現れている。19世紀初頭と1855年以降、蝦夷地の大部分は幕府の天領であった。ペリーが浦賀に来航したのは1853年であり、ロシアへの対処が1799年の東蝦夷地の直轄化から始まるとすると、ロシアは日本に到達するのがアメリカよりも半世紀ほど早かったことになる。

また、北海道が中国と日本、ロシアの間にあるという認識は妥当かつ重要。

但し、その後に北海道の近代建築が日露戦争後に建設開始されたというのは誤りである。私が最近調べた小樽で言えば、明治時代の倉庫や商店や銀行などが今も残っているし、日本の近代港湾の一つである小樽港の第一期工事は明治30年から41年にかけて行われ、その際に建設された北防波堤は日本人の技師が設計したコンクリート製防波堤としては最初の成功例となっている。

とはいえ、日露戦争以後に北海道が活気づいたことは間違いない。しかし、大規模開発などが行われた原因は「自らに自信を持つようになった」といった心理的なものではなく、南樺太を領土とし、北方への商圏が広まり、北海道の物産が流通する範囲が広まったからである。

こうして大資本が育ってくるとその圧力もあって政府は帝国主義的に振舞うこととなる。日露戦争の頃からその色彩が強まったとしても不思議はない。



今の私の脳裏には、琉球への印象が広島と結びついたものとなっている。広島といえば、まずは原子爆弾が爆発した場所である。我々は当然、平和記念資料館を見に行く必要があった。広島は核時代の最初の被害者であり、最大の被害者でもある。資料館の陳列物の様子は、永遠に忘れられないものであった。私はこうしたことから、日本の戦後平和運動の深い基盤について理解を深めた。それから、広島平和記念資料館をめぐる論議についてもいくらか理解できた。この論議は、その記念碑の碑文の叙述の問題を含んでいたが、いわゆる多義性(ambiguity)を持ったその叙述が、戦争責任の問題に関する再考察を誘発していた。広島の叙述は基本的に、一方で平和、一方で被害であり、この二点が最もはっきりと印象に残った。当然ながら、広島は日清戦争(1894年-1985年)の際、大本営が設置された場所でもあり、太平洋戦争中も軍事基地や軍事工場が存在していた。広島から程近い島には、日本四大神社の一つ厳島神社があるだけでなく、日清戦争における中国側軍艦の錨も陳列されていて、日本帝国の軍事的勝利を提示している。正直に言えば、私はそこを通ったとき、心の中に何か強く感じるものがあった。近代日本史において、広島自身が非常に複雑な都市であるのに、核爆発の傷があまりにも巨大なために、(日清戦争と太平洋戦争という)その背景がうやむやにされてしまっているのだ。こうした点に立って、広島と戦争との特殊な関係について言えば、この都市自身には被害者かつ加害者という二重の立場が存在するのである。(p.208)


広島に軍事基地や大本営が置かれたということを以って広島という都市に加害者という立場が存在するというのはやや行き過ぎているように思われる。例えば、広島という都市、その地方政府が大本営や軍事工場を置く場所を決めたというなら、都市も「関わった」とは言える。しかし、基本的には中央政府が決めたことを市としては受け入れざるを得なかっただろう。日本政府や日本軍による加害があったとするなら妥当だが、「広島」が加害者というのはおかしな話であるように思われる。それは沖縄に米軍基地があり沖縄から出発した米軍がヴェトナムを攻撃したからといって「沖縄」が加害者であるとは必ずしもいえないのと同じである。

しかし、原爆の陰で軍事基地があった土地であるということなどが霞んでいるというのは確かであり、それらの点を指摘しているのは妥当である。



残虐感と恐怖感を長引かせる地上戦が琉球人に残した記憶は日本の他の地域と比べてはるかに深刻であった。いわんや、中国での地上戦となると、三ヶ月などではなく、14年もの長きにわたって継続したのである。(p.209)


戦争の形態によって後の世に残す傷跡の違いがあるというのは説得力がある。但し、中国に関しては、国民党や共産党が人民を犠牲にしながら長期間逃げ回ったために被害が大きくなったという側面も指摘されるべきだろう。



国際法は初期において、帝国主義国家間の法則に過ぎなかった。しかし、民族解放運動と脱植民地化運動の発展に伴い、多くの被圧迫民族が新興の主権国家になった際、そうした運動は、国際法の主権学説を利用することで、自己に合法性を提供したのである。(p.223)


国際法の性格ないし機能の変化なども今後調べてみたいテーマである。



香港は中国の一部分であるが、国際的な法律主権の意味において、国際組織に加入する権利が香港にはあり、大陸と異なるパスポートと独立したビザのシステムを有している。この情況は中国の朝貢関係内部の権力構造に近い。(p.224)


一国二制度は以前の朝貢関係に近いという。興味深い指摘。



 冷戦という条件の下では、米ソ両超大国を除き、主権の不完全性あるいは不完全な主権は、東西両陣営に属する国家の普遍的な運命であった。……(中略)……。アジアでは、日本や東南アジア諸国、韓国、台湾などアメリカの冷戦システムの一員となっていた国家や地域は、実質的には完全な主権を備えていなかった。まさにこうした意味において、中国は例外であった。アメリカとの戦争と対抗、ソ連との論争と対立を通して、中国は極めて困難な条件の下に、本当の意味で独立自主の主権を形成した。(p.225)


この論文は中国国内の雑誌にも掲載されているということもあるのだろうが、中国を持ち上げすぎという感はあるが、中国は日本や台湾などと比べると冷戦の二極構造にあまり深く埋め込まれていなかったという指摘は参考になる。


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