アヴェスターにはこう書いている?
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浜林正夫 『「蟹工船」の社会史 小林多喜二とその時代』

 北海道では明治三十年ころから国有地の払い下げがしきりに行われるようになり、これに乗じて大農場をもつ不在地主が増加してくるが、この争議の相手方磯野進もその一人であった。
 彼は小樽で海産物商を営み、東京にも店をもち、小樽商業会議所(現商工会議所)の会長も勤める地元財界の中心人物であった。
 富良野にあったその農場は広さ約250町歩、うち50町歩を北海道大学の演習林に与えていたので小作人に貸していたのは約200町歩であった。(p.62-63)


北海道での明治30年(1897年)頃からの土地の払い下げが行われたことの背景となる要因ないし社会の変化は今後の調査対象としたい。

小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野進。彼の所有地の一部が北大の演習林となっていたとは知らなかった。ただ、現在は富良野には演習林はないようだ。

余談だが、北大の演習林は2001年より「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション」というのになったらしく、これも知らなかったので驚いた。国立大学が国立大学法人になったのは2004年からだが、それを見越して組織を改組したのだろうか?



 蟹工船がどうして植民地的搾取なのかという疑問があるかもしれないが、これは北海道が植民地として意識されていたためである。
 現在は変わったかもしれないが、北海道の人は本州のことを「内地」と言う。つまり、自分たちは「外地」に住んでいるという意識である。多喜二のころには、北海道をはっきりと「植民地」と書いている文献もある。そして、この北海道という未開の植民地は、すでに述べたように、まず囚人労働によって開拓され、ついで監獄部屋という強制労働によってそれが引き継がれ、その後さらに、中国や朝鮮から強制連行された人々が、これを受け継いだのであるが、そこでは「内地」にはないような搾取が行われていた。(p.89-90)


北海道が植民地である(少なくともそうであった)ことについて、最近私の関心は向かっているのだが、大正時代前後にはやはりそうした意識は比較的強く残っていたらしいということがわかり参考になった。なお、「内地」という言葉はまだ残ってはいる。

囚人労働、監獄部屋、強制連行という歴史については、隠蔽されがちなので、北海道の歴史を紐解いていく際には意識的に拾っていかなければならない事実であると考える。



 北海産物と関係が深い缶詰製造は輸入技術だったので、日本では1873(明治7)年に初めて試作され、日本の近代技術の多くがそうだったように、まず軍需で実用化された。77年の西南戦争から軍隊の携行が始まって、日清・日露の戦争を通じて拡大する。北海道でも76年に開拓使の工場が石狩町に設けられて翌年鮭缶を試作、86年には民間の工場も紗那・石狩・千島などにできて、90年から鮭鱒缶詰が海軍に買い上げられるようになった。後に輸出の花形になる北海の缶詰も、先に軍需の歴史が始まっていた。(p.161)


缶詰など現在ではローテクに見えるが、わずか130-140年前にはちょっとしたハイテクだったようだ。

軍需で利用できるものだというのは、なるほどという感じがする。携行できる保存食などとして活用できるから。

なお、この後の叙述を追っていくと、蟹の缶詰が実業化したのは1905年前後であったが、高価であるためはじめから輸出産業として成立した(p.163)というのは、当時の日本と世界の状況が反映しており興味深い。蟹工船は近海での資源枯渇や海水による蟹缶製造技術の確立などの要因が揃ったことにより、1920年代に実業化していくという。多喜二の小説『蟹工船』が発表されたのは1929年だから、当時としては最新の話題をとり上げていたことになろうか。



 1885(明治19)年から97(明治30)年までの12年間の在監囚人数は第1表のとおりであるが、彼らはどのような仕事をさせられたのであろうか。仕事の種類には製造(鍛冶、土工、藁工、炭焼きなど)と労作(農耕、採鉱、土方、運搬、伐木、大工など)と雑役があったが、一般的には囚人の仕事は獄内の仕事が主なものであったのに、北海道の場合には労作という外部の仕事が60ないし75%を占めていた。労作のなかでも明治20年代の中ごろまでは鉱山や土木事業が多く、それ以降は次第に農耕へ比重を移していった。これはおそらくそのころから監獄部屋が広がり始め、鉱山や土木の仕事は監獄部屋の土工夫に移されていったためであろう。(p.203)


北海道「開拓」の時代、炭鉱の開発や道路や鉄道の建設などには、こうした暗い歴史が隠されているようである。



 監獄部屋はいつできたのだろうか。これには明確な答えはない。なぜなら、監獄部屋というのは俗称であって、以前からあった土工夫の宿泊施設がいつの間にか監獄部屋と呼ばれるようになったからである。では、そう呼ばれるようになったのはいつごろからかというと、いろいろな説があるけれども、北海道では鉄道敷設工事が始まったころからと考えられている。ただし、北海道の最初の鉄道は1880(明治13)年に開設された幌内・手宮(小樽)間の鉄道であるが、この敷設工事に囚人や監獄部屋の土工夫が使われたことはなかったようだ。(p.205)


囚人や監獄部屋が整う以前に作られたからであろうか。一つ前の引用文からしても、監獄部屋が広まったのは明治20年代半ば以降ということだから、明治12~13年ころにはまだ十分な数が揃っておらず、それらを利用するという発想に至らなかったのかもしれない。

ただ、この場合、誰が作ったのか?(作業を担ったのはどのような人々か?)という疑問は残る。


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