アヴェスターにはこう書いている?
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杉森久英 『新渡戸稲造』

 明治十年代の北海道は、全道鬱蒼とした密林と湿地帯で占められ、およそ人間の住める土地ではなかった、という。森には熊が棲んでいて、ときどき人を襲い、文明社会から隔離されているので、住民は原始生活に甘んずるしかなかった。
 政府がこの土地を開拓する方針を樹てたのは、広大な土地に眠る森林資源や鉱山資源(石炭)や水産資源(鰊、鮭、昆布等)を活用して、国富を増やそうという目的もあったが、また、北方からアジアへ進出してくるロシア帝国に対する防備を固くするためでもあった。
 ロシアがシベリアを東へ進んで来て、太平洋へ達し、千島、北海道の周辺に出没するようになったのは、幕末のころである。それまでの日本は、北海道から先は自国の領土という意識もなく、自然のままの荒れ地として、放置していたが、ロシア人が現れるに及んで、はじめて侵略の危機に曝されているという意識を持つようになった。政府は北海道へどしどし住民を入植させて、農耕に従事させると共に、侵略に対する防衛の任務にも当らせることにした。
 つまり北海道は当時の日本にとって、重要な地域なので、政府はこの振興には金を惜しまなかった。札幌農学校はその作戦本部でもあれば、将来の幹部要員の養成所でもあったのである。
(p.54-55)


明治十年代に人が住める土地でなかったというのは、誇張しすぎであろう。それ以前からアイヌの人々は住んでおり、中国などとも交易していたのだから。

ただ、日本政府が北海道開拓という名の植民地支配を強力に進めた理由の一つとして、ロシアの東進及び南下に対する備えがあったというのは、恐らく正しいだろう。当時の世界情勢は国民国家・主権国家の体制を取らざるを得ない情勢下にあり、北海道は権力の真空地帯(強力な中央権力が不在)であったため、日本政府はいち早くこの島を「領土」に組み入れることとしたわけである。このあたりは江戸幕府が直轄地にした頃からの政策の延長上にあるといってもよいだろう。

また、石炭に関しては、幕末から白糠炭鉱や茅沼炭鉱の採掘が行われていたが、明治5年に幌内炭鉱の存在が開拓使によって認識されたことは大きかっただろう。日本でも4番目の鉄道が幌内から小樽の手宮まで敷かれたこと(明治15年全通)などにも、時の政府が金を惜しまなかった姿勢が見て取れる。また、明治初期の「お雇い外国人」もかなりの数が北海道に来ていた。

札幌農学校に関しては、確かに将来の幹部要員を育成しようとする意図はあったと思われるが、実際には札幌農学校やその後の北海道大学の学風はリベラルなもの(ないしは民主主義的な権利の平等性を重視するもの)となり、当時の政府が意図したものとはズレがあったように思われる。クラーク博士の精神やキリスト教の精神がこうしたリベラリズムの土壌であるかのように語られることがあるが、私見では、開拓のための「実学」を重視した帰結として、権威主義が排除されやすかったことがリベラリズムへの共感を醸成しやすかったのではないか、と思われる。また、北海道が僻地であった(ある)がゆえに、学生や教官たちは「中央からの視線」ではなく「周辺(辺境)からの視線」を(中央の学校よりも)持ちやすく、それがリベラリズムにつながったのではないか。



 実をいえば、『武士道』の記述にはまちがいが相当ある。……(中略)……。
 しかし、このような欠点は、この本がベストセラーズになることの妨げにならなかった。世間一般の読者は、書物に学問的正確さを期待したりはしない。日本なんて、地球のどこの果てにあるか、誰も知らなかった国である。それが大清帝国と戦争をして、負かしたという。それだって、日本人が有頂天になって喜んでいるほど、世界じゅうに知れ渡った出来事ではない。軍人とか、外交官とか、貿易商とか、新聞記者とか、そういう連中がすこしビックリしただけで、はて、日本とはどういう国だろうと思っているところへ出版されたのが『武士道』である。世界じゅうの各国語に訳されて、日本の歴史はじまって以来、はじめて、自分たちの書いたものでも外国人に読んでもらえるという自信をつけてくれた本である。その後、日本人の著作で外国でベストセラーズとなったという話はあまり聞かず、『武士道』をもって空前絶後とするらしいが、それにはそれだけの理由があったと思わねばなるまい。(p.135-136)


『武士道』の内容は学問的に正しくない部分が多いというのは同意見である。

100~150年前には、日本なんて世界(というか欧米)では知られていなかったという認識は当時の世界情勢を考える際には比較的重要な視点であるように思われる。



われわれが君に期待するのは、長らく海外にあって、進んだ文化を見てきた君が、その目のまだ肥えているうちに、思うがままに描く理想像である。現実現実というけれど、現実を見すぎると、目が痩せてきて、理想像が描けなくなる。空想といわれようが、実行不可能といわれようが、かまわないから、君は君で、自由奔放な夢を描いてもらいたい。(p.151)


新渡戸稲造が台湾に招聘され、台湾の管内を一巡するとすぐ、その上司である児玉源太郎と後藤新平が新渡戸に台湾振興策の具体案を作るように催促してきた。それに対し、新渡戸がもっと調査させるよう意見したことに対する、児玉と後藤の返答の一部である。

現実を見すぎると理想像が描けなくなるというのは、確かに一面の真理である。理想実現を妨げる要因が見えてしまうからはじめから制限してしまうわけである。それによって実現すべき目標が低く設定されると、さらにそれを実現しようとする際に理想から遠ざかり「現実」に迎合してしまうという現象が起こりがちである。そうならないためにまずは細かな制約などが十分に見ていていない段階で理想像を描いてみるというのは悪くない。

これを書いていてふと思い至ったのは、昨今の政治における「マニフェスト」についてである。現実的でないものを掲げることで民主党はよく批判されている。それが現実的でないとしても理想的なものであり、到達すべきものを示しているならそれはそれで意味はあるのかもしれないとも思える。しかし、同党のマニフェストは、理想的なビジョンを与えているとは思えないし、理想を掲げた後に現実的な修正はやはり必要になるはずだが、それを十分経ずに実現しようとしたりしているところがあり、やはり問題は大きいように思われる。もっとも、これは民主党のみに限ったことではないが。



 入学式における校長の訓示といえば、忠君愛国とか義勇方向とか、古い道徳観念を強制する、紋切り型のものが多かったが、新渡戸の訓示は、日常卑近の生活に密着した、平凡きわまる教訓に過ぎないにもかかわらず、それがかえって青年の心に新鮮に響いた。
 時代の思潮も大きく変わりつつあった。日露戦争でおびただしい戦死者を出し、ようやく敗北を免れたものの、国土と人心の荒廃に、敗北以上の悲惨を経験しなければならなかった日本人は、空疎な民族的自尊心よりも、平穏な日常生活の幸福を求めるようになっていた。(p.175)


新渡戸稲造は明治39年(1906年)に第一高等学校の校長に就任する。その翌年の入学式での訓示についての記述。

日露戦争が終わって間もない時期の世論の変化を指摘しているのは興味深い。大正デモクラシーなどにつながる方向性であるように思われる。もっとも、こうした説明ではこの時代の思潮の変化の説明としては不十分だろう。



 日本は日露戦争ののち、しばらくは軍人全盛の時代だったが、次第に民主主義、人道主義、平和主義の時代に移り、軍人の影が薄くなった。軍服を着て、サーベルをさげて歩いていると、反戦の若者に白い目で見られ、軍人志望者が激減した。
 ところが、すこし前から、風向きが変わりはじめた。満州事変や上海事変で、日本軍の勇敢な戦いぶりを知った国民は、改めて軍人に感謝の心を抱くようになった。新聞やラジオは軍人や軍隊のことを報道し、町には軍歌が流れた。若い娘は軍人に憧れの目を向けはじめ、軍人は自信を取り戻した。(p.334)



1900年頃から1930年代頃の世論ないし世相の変化はかなり大きな変化があるように思われ、当時の社会情勢及びその背景についてはよく学んでおく必要が在るように思われる。現代とかなり似たところがあると思われるからである。

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