アヴェスターにはこう書いている?
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渡辺悌之助 『小樽文化史』

 爾来小樽は、札幌の外港となって、日に進む石狩平野の開発と共に、その物資を呑吐する西海岸の重要港にのし上がったが、その反面札幌もまた、小樽のみなと在って出現したとも云える。(p.76)


石狩平野に札幌が建設されるに当たり、小樽という天然の良港の存在も一つの要因となったであろう、ということ。小樽と札幌は互いに他方を必要として建設されたと見ることができる。ただ、戦後は小樽の重要度は低下したため、様々な都市機能が札幌に集中しているため、2010年度、小樽は過疎地に指定されるまでになった。



 小樽は背後に山を負い、丘陵が海に迫って平地がないため、人々は手宮・於古発・入船・勝納の諸川のうちで、最も大きい勝納川の河口に集っていた。
 従って、勝納の河口を中心に海に平行して延嘉・勝納が先ず拓け、その裏に延嘉裏町と遊女屋のコンタン通りが出きた。(p.77)


明治10年代までは勝納川河口が集落の中心であったが、明治14年のコンタン町の大火により市街の中心は入船川の河口、現在の通称「メルヘン交差点」周辺に移った。メルヘン交差点が幾つもの通りが集まっているのもこうした歴史の反映なのであろう。



 ところで当時すでに開港場(7月)に指定され、人口61,893人を擁する国際貿易港となって、函館に次ぐ本道第二の大都であった小樽港にして、有権者の数は何と295名に過ぎない状態であった。
 これには三年以上定住しないと、選挙権を認めない条件もあったが、殆んどの市民が区税の負担に堪えられなかった訳で、貧富の差が甚だしかったことが分る。
 ……(中略)……。
 第一回の選挙に当選した区会議会の氏名は次の通りで、その過半数が商業会議所議員(明治29年創立――会頭山田吉兵衛)を兼任しており、文字通り当時の小樽政界を代表する人達であった。(p.106)


小樽港は明治32年に開港場(外国貿易港)に指定されているが、この都市、小樽に区制が施行され、小樽郡から小樽区になり、議会が設けられた。有権者は人口の5%にも満たず、区議会議員のほとんどが大商人で、区長・市長も同じく大商人、そうした豪商兼政治家の中からこの地域の国会議員も出るという状況であった。

こうした貧富の差というか、一部の豪商による政治権力及び経済的利益の集中と、彼らに使われる大多数の貧しい労働者の対比の存在が、最近ブームになった『蟹工船』で有名な小林多喜二の作品などに反映されていると見てよいだろう。



 小樽市史によれば、当時札幌在住の憲政党支部長――浅羽靖〔衆議院議員・札幌区長、また北海中学の創始者で、小樽の名望家二代井尻静蔵の舅に当る〕は、党勢拡大のため、区制直前の小樽の総代人選挙に、大芝居をうったと云はれる。
 浅羽はまず石狩・空知・樺戸・雨竜方面の大地主に応援を求めて、小作人多数の本籍を小樽に移して選挙人名簿を作成し、また小樽町内の選挙資格を有する党員の地区配分を行って、町内八地区の全部に亘り、改選総代人を憲政党で独占しようというのである。
 しかも当時、総代人選挙規則はあったが頗る杜撰で、どのような解釈も成り立ったから、支庁の方でもそのまま受理登録して、敢えて違法とは思わなかったようである。
 かくて選挙日八月二十五日直前の十五日の調査では、有権者が456人であったのに、二十三日の調査では、1,607人になり、実に、1,151人が増えていたという驚くべき事態になっていた。
 これを知った小樽港民の憤激は、大変なものであった。(p.108)


こうした今では信じられないような政治工作が行われたために、選挙権付与のためには3年以上定住していることという条件があったのかもしれない。



 旅順港の閉塞(徴用した御用船を港口に沈め、敵艦隊が出られないように封鎖する)は前後三回に亘って行われ、参加商船二十一隻を数えたが、このうち第二回閉塞(三月二十七日)の千代丸・福井丸・弥彦丸・米山丸の弥彦と米山は、小樽の板谷商船の持舟であり、第三回閉塞(五月三日)の出動船十二隻のうち、九番船の小樽丸は、藤山海運の所有船であった。
 更に樋口委員の調査によれば、広瀬中佐で有名な福井丸も、小樽に出店した北陸海運の覇者右近商事の所有であったから、然れば旅順港閉塞の御用船二十一隻のうち、その四隻までが小樽の持舟であったということになる。
 これはある意味で、商船王国としての当時の小樽の、ランクを示した証左となろう。(p.113)


こうして船を徴用に出すことによって多額の徴用金を得た板谷宮吉や藤山要吉は「船成金」と呼ばれるようになったという。日露戦争の結果、南樺太が日本の領土となったことによって小樽は樺太との交易の中継点として飛躍的に発展することになるのだが、その戦争自体にも小樽の資本家たちが関係(協力)していた。これらの大商人たちにとっては日露戦争の勝敗は、彼らのビジネスに直結する一大事であったということを考えれば、彼らの行動も理解できる面がある。また、軍事、政治、経済は分野を区切って語れる性質のものではないということがこういうところからも分かる。



 大正時代の小樽の繁栄を代表したものに、豆撰(マメヨリ)女工と呼ばれるものがあった。
 これは第一次世界大戦が勃発して、菜豆類の主産地であったルーマニヤ・ハンガリー・オランダ等が主戦場になったので、日本からの雑穀、澱粉の輸出が急増して、これに検査規格が設けられたため、小樽市内に豆撰工場が続出し、そこに働く女工が毎朝列をなして通勤し、壮観を極めたものである。(p.131)


当時の世界経済がいかにグローバル化していたかが見て取れる。小樽という都市の歴史を見てみると、経済の展開は、戦争によって大きく左右されていることがわかる。特に日露戦争と第一次大戦では恩恵を受け、第二次大戦は衰退要因を準備している。


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