アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

別枝篤彦 『戦争の教え方 世界の教科書にみる』

 私は同じ民族の国であるオーストリアにひどい傷を負わしたくなかった。不必要な苦い感情や復讐心を決して残してはならないと思った。ヨーロッパという大きな舞台を考えれば、われわれはどうしても友人でなければならない。
 もしオーストリアがひどく傷つけばそれは当然フランスの味方となり、ことごとにわれわれに敵対してくることは明らかである。プロシアに復讐するためには、その伝統的な反ロシア的感情でさえ捨ててこれと結ぶ恐れがある。われわれの仕事はただプロシア王の指導下でのドイツ諸国民の統一の確立にある。(p.94-95)


ドイツの教科書でビスマルクの回想記を引用している箇所からの抜粋。

すでに敵対している勢力に対しては中立化し、敵対していない勢力に対しては味方につけるということが、外交と安全保障における考え方の基本(自らの立場をより有利にしたいのならば基本的に採用すべき方針)だと思うが、ビスマルクはまさにそうした考え方をしていたようだ。南京事件などを引き合いに出して中国の人などから日本が非難されることがあるが、これは残念ながら当時の日本政府や日本軍がこうした基本的な事項をよく踏まえていなかったために起きてしまっている不必要な摩擦である。(当時の日本政府や日本軍は馬鹿なまねをしてくれたものである。)

本書によると「つねに政治を軍事に優先させること」がビスマルクのやり方であったそうだが、当時の日本はまさにそれができていなかったということである。



 ところで奇妙に思われるのは共産圏諸国の教科書である。
 たとえば中国の国定の高校用「簡明世界史」(北京大学編、1974年初版)では、太平洋戦争を終了させたのは原子爆弾の投下より、むしろ中国人民の勇戦、ことに1945年8月9日、毛沢東が「これこそ最後の一戦」と全軍を激励して日本軍に総攻撃をかけた結果であるとしている。原子爆弾投下の事実にもふれてはいるが、「原子爆弾だけが日本を降伏させたのではない。原爆だけで中国人民の闘争がなかったなら、原爆といえども空弾に過ぎなかったのである」との毛沢東の言葉をかかげている。まして原爆の被害の詳しい記述などは少しもみられない。
 この教科書は、もちろん全体がマルキシズムのイデオロギーで一貫して述べられてはいるが、原爆の具体的事実をもっと記述してはどうかと考えられる。それとも自国で核兵器を開発中の中国としては、故意に詳しい記述を避けたものであろうか。いずれにしても他国の教科書の内容を批判する前に、まず自国の教科書が史実の客観性に忠実であるかどうか(たとえばさきの8月9日の毛沢東の総攻撃命令は、それが事実としても広島・長崎への原爆投下後であることは何ひとつふれていない)を考慮すべきであろう。その他ソ連など共産圏諸国の記述については後述する。(p.174-175)


当時の中国の教科書に対する妥当な批判であろう。中国の場合、ここまで酷いかどうかは別としても、現在もこうした傾向は引き継がれているであろうから、昨今のように中国の勢力が台頭している状況を考慮すると、客観性に乏しい世界(歴史)認識を有する人々が勢力を増していることにはある種の危うさを感じる。



侵略者は何かを獲得するために戦争へ突入するのであるから、協定によって平和的にそれを得る準備も、すでにできているのが常である。(p.190)


確かにその通りであろう。その意味では戦争というのは先に攻撃した側が道徳的には悪いとしても、攻撃された側にも政治的な落ち度がないとは言えない。戦争が始まってしまった後、どのように収めるかということは、まさに政治の領域に属する。

また、第二次大戦以前のように政府対政府の対立で、政府がその国に属する国民を動員して戦うという場合、意思決定も政府にほぼ一元化されているため、まだよかったが「テロとの戦い」などでは、協定する相手が存在しないという点で以前の戦争よりも遥かに難しいものとなっているように思われる。



 近年ヨーロッパ各国の間では外交的な配慮から当事国がたがいに「歴史の恥部」を教科書から削り去ろうという動きもみられる。たとえば現在西ドイツとポーランド両国の間では委員会が設けられて、たがいの使用教科書を改訂する作業が進められている。これは両国の平和的共存が進行するにつれて、たがいの憎悪をかきたてるような記述をやめたいという願いから出たものである。(p.206)


本書は1983年に単行本が出ていたので、「近年」というのは70年代頃のことであろう。

ここで紹介されているのは賢いやり方の一つであるように思われる。

ただ、「歴史の恥部」を全く教えないとすれば問題だろう。そうした「歴史の恥部」を教えることによって、未来へ向けた反省を促すということは重要な教育である。ただ、そうしたものを教えることによって――中国の愛国主義教育などがわかりやすいが――「敵」への憎悪を掻き立て、むしろ「反省」ではなく「復讐」へと向かうとすれば問題はより深刻である。

「歴史の恥部」を客観的に示した上で、それを未来へ向けた「反省」という帰結に導くように教えなければなるまい。それは事実を客観的に教えない右翼の「自慰史観」とは全く異なるものである。また、「歴史の恥部」を教えるとしても、右翼的な論者が「自虐的」であるなどと形容することも不当である。反省することと虐げることとは別のことだからである。



そうしたなかでわれわれは各々のナショナリズムが互いを模倣しつつ成長し、また互いに恐れあっていることを発見するのである。(p.241)


ナショナリズムが模倣しつつ成長するというあたりは、例えばベネディクト・アンダーソンのモジュール論などにも示されており、割とよく言及される性質であると思われるが、ナショナリズムの感情を抱く人々が「互いに恐れあっている」という指摘は、思うに、ナショナリズムという「社会化された情緒」の根幹となる要素を指摘しているように思われる。



――私は国が常備軍をもつことに反対する。それは多人数で政府の強い片腕となるからである。私としては個人的人間であることが第一で、従属者となることはそのあとの問題だ。単に政府のすることに何も考えずに協力する人間は、真の良心をもたないといえるだろう。(p.279)


これは19世紀中期のアメリカの詩人兼自然観察者ヘンリー・ソローの意見である。

個人の自由を尊重する立場からの典型的な意見であるように思われる。単に政府のすることに協力する人間も、単に政府のすることに反対する人間も、実際には似たようなものである。ただ、単に政府のすることに協力する人間は、権力を強化するという点で危険性も大きいのであり、その意味では協力する側を主として取り上げることにはそれなりの意味があるように思われる。



 『戦争の教え方』刊行の背景には1980年代初頭の教科書問題があったことをみておく必要があるだろう。80年1月から8月にかけて、自由民主党の機関紙「自由新報」は「いま教科書は 教育正常化への提言」という記事を十九回にわたって連載し、主として国語と社会科の教科書が「偏向」しているという宣伝を展開しはじめた。(p.309)


伊ヶ崎曉生氏による文庫版への解説より。

自民党のこうした動きは、特に90年代以降の右傾化の傾向に乗って勢力を増し、安倍晋三内閣による2006年12月の教育基本法改正によって部分的に成就されてしまったわけだ。理性的とは言えない彼らの主張が30年にもわたって繰り返されている…。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/643-448f55bc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)