アヴェスターにはこう書いている?
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小野洋一郎 『最新版 小樽歴史探訪』(その3)
小樽市庁舎

 小樽の自治体としての発足は、明治三十二年十月の北海道庁の告示をもって、札幌・函館・小樽に区制が施行されたことに始まる。この時以来、小樽区では、一級、二級、三級の三段階の納税資格によって分けられ、各九名ずつの計二十七名の議員が選出されたのであった。その頃の小樽の人口はおよそ六万二千人、小樽は函館に次ぐ北海道内第二の大都会であった。しかし、それにもかかわらず有権者の数は少なく、わずかに約三百人を数えるに過ぎなかった。その訳は、選挙権付与の条件として二つのことが要求されていたからであった。一つは三年間以上小樽に定住していること、もう一つは決められた額の区税の納入を完了していることである。当時の小樽区は、それほどまでに、住民の出入りが激しく、その貧富の差も甚だしかったのであった。住民の大部分は、区税の負担に堪え得ないほどに貧乏だったのである。また一方、そのことは、小樽区の政治がほんの一握りの富に恵まれた有力者に牛耳られていた、ということに他ならなかった。(p.142-143)


選挙権付与の条件のうち、三年以上定住することが定められていたのは、区制が実施される直前のある事件が影響しているのではなかろうか。すなわち、ある有力者(浅羽靖)が他の地域から人をかき集めて選挙人として登録させ、自らの勢力を議員に就けたという、今ではちょっと考えられないような事件が問題となったことがあったのである。このあたりのいきさつは『小樽文化史』(1974)という本に割と詳しく載っているので、後日、その本を取り上げる際にコメントすることにしたい。

最初の小樽区議会議員の過半数は当時の商業会議所(現在の商工会議所)の議員を兼務していたということは、当時のこの植民地都市の統治の状況として、経済的な権力と政治的な権力がいかに密接に結びついていたかということを示して余りある。

小樽を観光すると、ガイドは「かつてはこの街は栄えていた」として紹介することが多いように思うが、その陰には暗い面もあったことは銘記されるべきであろう。



年間を通じて西風の吹くことが多く、平均風速三メートルの小樽では、特に冬の積雪・融雪期に強風が吹き荒れるのを常として、大火はいずれもこの時期に起きている。(p.144)


明治期の小樽では頻繁に大火が起きたというが、風土の影響があったらしいことがわかる。

小樽の大火の背景となる要因としては、この地域には平地が少ないために建物なども稠密だったのではないか、と想像する。小樽の歴史を調べていて思うことだが、多くの問題についてその背景にある地理的な要因は平地の少なさにあるのではないだろうか?明治期の港の埋立問題然り、小樽運河建設時の政治闘争もこれと絡んでおり、さらには昭和の小樽運河保存運動の際の道路建設もまた同じ問題が背景にある。小樽の特徴である木骨石造倉庫や「うだつ」を持つ商店建築などの背景にある大火の頻発という問題もまた、同じように地理的な問題(平地が少ない)ところに求めうるのではないだろうか。もちろん、それだけが原因であるなどというわけではないが、ブローデル的な「ほとんど動かない歴史」の作用とでも言おうか。

この問題は、私が小樽の歴史を認識する際のかなり重要な仮説である。



 小樽区の理事者たちは、この大火(引用者注;明治37年の稲穂町の大火)を機に、市街地の防火対策と建築規制についての取り組みを強化することを真剣に考え始めた。第一(日銀前通り)、第二(駅前中央通り)、第三(竜宮神社通り)と、三つの防火大通りの実現はこの後のことであった。その他、現在に残る小樽の、古い街並みの特色は、多分に、この頃の施策から生まれたものである、とも言えよう。石造りの倉庫や家屋、隣家との境に設けられた防火袖壁、石造家屋との間に置かれた木造家屋、これらは、当時の庶民たちが考え出した、生きるための生活の知恵でもあった。(p.145)


この3本の大通りは確かに、自動車が走るより前に作られた通りとしてはかなり広い幅を持っていて、防火帯として設けられたと言われれば、なるほどと思わされるものがある。

ただ、三本の防火帯は明治14年に設定されたというが、この稲穂町の大火で第二防火帯(中央通)が拡張されたようだ。ちなみに、中央通は都市景観を改善する観点から2003-2004年頃にさらに拡張されているため、現在は当時の広さとは違う。



右近倉庫

 大正三年には、色内町に営業用の倉庫を所有し、大正から昭和にかけては、倉庫業をも営んだ。だが、その活動の主体は、明治末から盛んになった樺太向けの物資の保管と輸送にあった。その頃の小樽は、樺太経済を動かし、外からそれを支配する重要な役割を担っており、樺太への生活物資を送る門戸であった。(p.191)


大正三年というと第一次大戦が始まり、小樽の経済が戦争の特需で最後の繁栄を謳歌することになった時期であるが、それよりは日露戦争により樺太を経済圏に納めたことがこの都市の繁栄の基礎となっていたようである。



蘭島海水浴場

 明治三十五年に北海道鉄道の蘭島駅が設置され、翌三十六年には蘭島駅と小樽中央駅との間が開通した。同三十八年になると、諸施設が整備されて、海水浴客の訪れが増加した。(p.237)


これと類似の現象は、台湾の淡水という町でも起きていたことに気づくし、元を辿ればイギリスでも同じような現象が見られた。帝国主義(グローバルな金融と資本移動の自由化)による経済の拡張が交通機関の普及につながり、それがレジャーなどにも波及していく様は非常に興味深いものがある。



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