アヴェスターにはこう書いている?
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小野洋一郎 『最新版 小樽歴史探訪』(その2)
篠田倉庫

 ところで、明治三十年に保税倉庫法が発布されて、全国的に倉庫業を営む者が多くなった。大正二年十一月に、砂糖輸入の必要から小樽でも保税倉庫の開始を見ることとなり、その倉庫の指定も行われた。
 その後、第一次世界大戦期の輸出入の増加と小樽港沿岸の修築による倉庫地帯の拡大によって、倉庫も続々と建っていった。そのうちの一つが、篠田倉庫であった。
 大正末から昭和にかけての不景気は倉庫業者間の競争を激化させ、昭和十年代の事変傾向で活況を呈し始めはしたものの、同十五、六年頃の太平洋戦争勃発前に政府の指導により統制合同を促され、同十九年七月に、市内十七倉庫業者によって小樽合同倉庫株式会社が設立され、合同するに至った。終戦直後の同二十年十一月の解散後も合同したまま残るものがあった。同二十一年六月に発足を見た大同倉庫株式会社がそれである。篠田倉庫は、一時期、この会社に所有されていた。(p.50-51)


倉庫というもの一つをとっても歴史の展開がある。



 明治から大正にかけて、道内や樺太への繊維製品の集散基地としての役割を担っていた小樽では、繊維商人は、海産物商人や雑穀商人と並んで、三大花形の一つに数えられていた。その繊維関係の花形商人たちの結集した小樽問屋同盟会の有力メンバーの一人が、呉服問屋小堀商店を経営する小堀鶴吉であった。(p.80)


海産物や雑穀が小樽の商業で重要な位置を占めるのは割と理解しやすいが、繊維関係もそうだったというのは、意外と理解しにくい気がする。少し理解を深めたいところではある。



堺町本通り概説

 小樽は「坂の街」と言われているが、それは山々を崩して街づくりをしたことによる。
 ここ堺町と言われる土地も、かつては水天宮の山が海岸線に迫っていたのである。そこを、開拓史の時代に山を崩して麓の海岸を埋め立て、港と街を造成したのであった。(p.86-87)


「天然の良港」と石狩平野が小樽の都市を形成する方向に作用した地形的および地理的な要因であったが、都市の形成を困難にする要因としては平地の少なさがある。その阻害要因を減らすために「山々を崩して街づくりをした」のであり、これはなかなか的を射た表現と思われる。

明治時代前半まで海岸の埋め立てが行われ、現在残っている古い倉庫の多くがこの埋め立てられた土地の上に建っていることは、小樽の歴史の本ではよく語られている。しかし、この要素はもっと新しい時代にも効いてきている。というのは、小樽運河が現在のような景観になったのも、この「平地がない」という要因によって制約されているからである。つまり、余市方面と札幌方面を繋ぐ主要な道路が国道5号線しかなく、バイパス的な道路を作る場所がなかったため、運河の一部を埋め立てて道路を作ったのだが、その地理的な背景因も、結局は同じところに帰着する。

ちなみに、この堺町通りの山側は切り立った崖になっている。これを見ると「山々を崩して街づくりをした」というのが視覚的に納得できるだろう。もともとはこの通りの辺りが海岸線であったらしいが、そのことも容易に納得できる。



そして、同(引用者注;明治)二十年代に、林有造や岡野知荘など民間の事業家によって色内町、手宮町の大規模な埋め立てが行われ、砂崎町、南浜町、北浜町が誕生した。やがて、そこに商家が建てられ、石造倉庫が続々建ち並ぶことにもなっていった。(p.87)


埋め立てられるとすぐに続々と倉庫が建ち始める。当時はそれだけの必要に迫られていたことがわかる。



木村倉庫

木村商店(明治四十四年十二月には、本社を稲穂町に置く木村合名会社)が営業倉庫業者として台頭するのは、大正の時代に入ってからのことで、折からの海運ブームや雑穀ブームの波に乗ってのことであった。鰊漁の盛時には海産物を収納していた倉庫が、今度は、米・麦・玉蜀桼・大豆・小豆などの農産物で溢れるようになったのである。第一次世界大戦によるヨーロッパの食糧不足が、このような現象を招来したのであった。(p.92)


こうした産業の変化の詳細も今後調べてみたいポイントの一つである。



寿原邸

 小樽では、明治二十九年の大火以後、商人や実業家たちの間で、店舗とその住居を分離し、住居は眺望のよい高台に建てることが流行した。この建物は、その好例で、大正元年に、和風の木造二階建ての住居として、小樽港を見下ろすことのできる水天宮の高台に建てられたものである。(p.108)


流行したのは何故だろうか?


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