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アヴェスターにはこう書いている?
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パスカル 『パンセ』(その1)
ページ数は中央公論社「世界の名著」版のもの。

 われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。(p.119)

 われわれを楽しませるのは、戦いであって、勝利ではない。
 ・・・(中略)・・・われわれが追求するのは、決して事物なのではなく、事物の探求なのである。(p.120)

 感嘆は、幼児からすべて台なしにする。おや、なんて上手に言えたんでしょう。おや、なんてよくやったんでしょう。なんておりこうなんでしょう。等々。(p.131)



これらの句から、パスカルは生命が作動するものであることを見て取り、勝利したときのように「他者」が消去されてしまうことの不快をも感じ取っている。そして、三つ目の句では、それを教育にまで応用できている。成果を評価しても、良い教育にはならない。そうでなく、作動することが重要である。

パスカルはこうしたことを感じ取ってはいるようだが、それを明確に示すことは出来ていないように見受けられる。

 絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。(p.120)



パスカルはしばしば、面白いところを衝く。

パスカルが言うような違いが生じる理由は、絵画には画家の意図と技術という要素が絡むからであろう。

すなわち、絵画は原物を見るのと異なり、何を表現しようとするのかを読みとこうとする作業や、それをどのように実現しようとしているかということを見るものに要求する。少なくとも見る者が「感心する」のは、そうしたものを見て取ったときである。そして、それには「戦い」を減ることが必要である。それがこの場合の「原物」と「絵画」の違いではなかろうか。

そうであれば、それほどにまで「むなしい」ものとも言えまい。

確かに、それによって特別役立つものができるわけでもない点などは「むなしい」と言えなくもないが、それを見ることや描くこと自体のある種の「無駄さ」も時には必要かもしれないし、ルノワールが言うように快適な絵を見ることは、心に心地よいのであり、そうしたものを「むなしい」とは言えまい。

<武器なしの生活などありえないと考える、荒々しい国民>彼らは、平和より死のほうを好む。他のものは、戦争よりも死を好む。(p.132)



これは両極端の場合について当てはまる。すなわち、武力増強をひた走る場合と、絶対的平和主義。しかし、集団の場合、前者の方向に進み出すと歯止めが利かない。そこへの実質的な歯止めが重要だとする私の持論はそれ故のものである。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(p.204)



有名な一節である。しかし、私見では誤っている。特に、「なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているから」という理由で、人間が宇宙より尊いとするのはある意味では意味不明である。

確かに人間の知性によって自然をある程度制御したりすることはできるだろう。しかし、この論理を一歩進めると、同じ人間の間でも、知性の優れた者ほど尊いという結論になる。これを考えるだけでも何かがおかしいと感じる人は多いのではないだろうか。

もちろん、優れた知性の持ち主は、人類にとって大きな貢献をするかもしれない。しかし、マンハッタン計画に携わった科学者が「これで俺たちはみんな悪党だよ」と言ったように、そうした貢献が必ずしも良いこととは限らない。そうした価値相対的な観点からも批判されうる。

ここでのパスカルの価値観はかなり主知主義に偏っているということである。少なくとも、そのようにしか表現されていない。

私見では、「他者があることは快である」ということを人間にとっての普遍的な原理と考えるので、当然にある人の尊厳、ある人がいることの価値というのは、そこに求められる。ある人にとって「他者」であることが、その人の尊厳のコアになる。その意味では自然と人間は特段違わない。しかし、上記の原理が「人間にとっての」ものである点で人間とそれ以外の存在者とは区別される。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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