アヴェスターにはこう書いている?
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小樽多喜二祭実行委員会 編 『ガイドブック 小林多喜二と小樽』

 1880年、北海道最初の鉄道が手宮・札幌間に開通以来、小樽は北海道の玄関口として発展の一途をたどった。石炭、木材、海産物などが小樽港から内地府県へ積み出され、かわりに米・酒・衣料・金物・雑貨など、あらゆる消費物資が小樽に陸揚げされた。小樽商人は日本海沿岸から利尻・礼文・オホーツクの知床西岸にまで足を伸ばし、北海道東海岸一帯を支配していた函館と商圏を二分した。1899年、小樽は開港場に指定され、朝鮮、中国、ロシアと結ぶ国際貿易港になった。(p.8)


鉄道により石炭だけでなく北海道の内陸部との物資の交易ができるようになったため、北海道と道外とを結ぶ結節点となったことにより小樽は発展した。これ以降1930年代までが繁栄していた時代である。

小樽の商人が知床まで足を伸ばしていたということには少し驚く。また、函館との棲み分けがあったことも興味深い。

国際貿易港となった交易相手の多くが旧共産圏であったことも、戦後の小樽が「斜陽化」した背景因の一つだろう。昨今、ほぼ1年前である2009年2月に小樽とソウルの江西区が友好都市提携したことや中華圏からの観光客が増えていること(香港や台湾が多かったが、今後は中国大陸からも増えるだろう)などは、冷戦時代が終結して再度、極東の経済的結びつきが強まっていることを示しているようで興味深い。なお、1,2年前まではロシアへの中古車の輸出が小樽港のかなり重要な輸出品目となっていたが、ロシアが関税を上げて急速に冷え込んでおり、これも小樽の地理的な位置からはユーラシア東部との往来が如何に重要かということを反映していると思われる。

その意味では、冷戦時代よりは現在の方が小樽の「地の利」は相対的には良いのかもしれない。



 1905年6月、ポーツマス講和会議に先立って日本はあわよくば樺太(サハリン)全土を手に入れようとにわかに樺太上陸作戦を開始した。7月、小樽を出港した樺太侵攻艦隊は難なく樺太を制圧して軍政をしいた。この後樺太から軍が撤退する8月下旬まで小樽は軍港化され、樺太作戦の重要な補給基地となった。(p.8)


小樽港が軍港化された時期があるということは、あまり語られない事実である。

いわゆる帝国主義の時代に、日本政府のその時代に即した行動によって植民地化されながら日本に取り込まれた北海道だったが、国民国家の国境内にあることが完全に固まった後は、その北海道自体が外部拡張の足場となった。小樽は国内取り込みの際にも海外進出の際にも拠点となった場所であり、日本のいわゆる「近代」や「帝国主義」の歴史的記憶が豊富に残っている都市として貴重である。

このあたりが私が小樽という地域を研究する際の基本的な視座のひとつとなりそうな気がする。



 石川啄木は1907年9月に『小樽日報』の記者となり、急成長する小樽の町のあわただしさを記事にした。(p.10)


啄木は小樽をあまりよく思っていなかったようだが、当時の小樽は、昨今の中国の都市部のような急成長ぶりだったであろうから、現在の小樽の「少しゆったりしたレトロな雰囲気」とは相当違っていたものと想像される。



 北海道には内地府県にはない特異な風土と環境があった。………それは近代日本の中で、最もおくれた前近代的な強烈な抑圧と搾取が公然とまかり通っていたということである。出稼ぎ・移民・タコ労働者………北海道の開発はそれら生身の人間の無残な使い捨ての上に強引に進められてきた。(p.10-11)


こうした環境であったからこそ、多喜二の文学作品が生まれ得た。本書を読むとその点がよく理解できる。



 第一次大戦当時、小樽商人は海運ブーム・雑穀ブームなどの戦争景気に酔いしれた。船腹の不足で船賃が上がり、老朽船もフル動員。中小船主も大いに稼ぎまくった。ヨーロッパの雑穀産地が戦場になり、グリンピースなど豆類の輸出が急増し、思惑買いも重なって雑穀相場は高騰した。十勝の青豌豆や小豆などの雑穀が小樽に集められ、おおぜいの豆撰女工の手で等級ごとに選別された。小樽の商品取引所(地図I-9)で相場が立ち、小樽港からぞくぞくとヨーロッパへ向けて輸出された。小樽の相場はロンドンの市場に直結すると豪語したものである。
 ……(中略)……。小樽の活況は函館をしのいで全道一、そののち1930年代半ばの「昭和恐慌」までつづいた。小林多喜二が創作活動に入ったちょうどそのころが小樽の黄金時代。(p.21)


それ以前は石炭と鰊が重要な輸出品だったが、鰊が大正後期には次第に不漁と代替肥料の登場による需要減などが重なって商売にならなくなってきたが、鰊が取れなくなる前に日露戦争で樺太という商圏が拡大され、第一次大戦によってヨーロッパの穀物市場にまで手を伸ばすことが出来たのは、商人にとっては幸運だったと言えるだろう。この時期に巨万の富を得た商人は多かったようで、現在に残る小樽の歴史的建造物も彼らが残したものは少なくない。



 運河にかかる橋が7本。荷物を満載した艀が橋の下をくぐって通れるように、橋桁は水面から3.5メートル以上にかさ上げされていた。どの橋もみな橋の袂には土を盛って、路面がゆるく隆起していた。昔の形を残しているのは、今はこの北浜橋ただ一つ。運河と艀と倉庫と、港湾荷役の三位一体の仕組みを知ることができるのは、この一画だけである。(p.42)


道道臨港線を作る際の運河埋め立ての工事に合わせて、運河の橋はよりフラットな形に変わってしまった。艀の通路という機能を失ったことを象徴しているとも言えよう。



 いわゆる明治・大正の建物も、近ごろようやく歴史的建造物として評価の対象となってきた。かつて北海道一の商都を誇った小樽の町並みは、太平洋戦争中さいわい戦災をまぬがれた。戦後嵐のような列島改造の中で、幸か不幸か高度成長の波にとり残され、小樽の歴史的な町並みとエキゾチックな建造物の多くは、無残な破壊を免れて今日におよんでいる。
 ……(中略)……。
 小樽はそっくりそのまま日本近代史の生き証人であり、日本資本主義発達史の貴重な実物教材となっている。(p.57)


戦災を免れ、高度成長による破壊をも免れることで生き残ってきた明治・大正の建物と町並み。それが日本の近代の歴史の「貴重な実物教材」であるという指摘は同感である。この点に関しては、台湾も同じであると私には思われ、両地域が最近の私の興味を引いているわけだ。

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