アヴェスターにはこう書いている?
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小笠原克 『小樽運河戦争始末』

 小樽倉庫は明治26年、当時の船会社経営者や、地主ら七人の共同出資で建てられた歴史的風格ある石造倉庫だ。屋根には八基のシャチが躍り、小樽のシンボルとして親しまれてきた。
 城下町でもない小樽に、しかも、倉庫にシャチホコがあるのは全国的に珍しい。倉庫が町発展の核としての役割を果たしていたことを物語るもので、当時の小樽商人の心意気をも示している。(p.14)


小樽倉庫は現在、「運河プラザ」や博物館の別館などが入っている建物で、小樽駅からまっすぐ坂を下っていくと運河と出合うところにある。昭和60年(1985年)に92年ぶりに復元されたというから、今は普通にあるように思えるシャチホコだが、実は長いことない状態が続いていたらしいということを本書で知った。



 そこへ、明治13年、色内・手宮地区を貫く幌内鉄道が開通したことは、その翌年の大火で勝納一帯が灰燼に帰したことも伴って、小樽の市街地が北へ動く変化をもたらし、入船地区から色内地区にかけて官民の施設が移り、賑わいを見せてきた。
 港も急速に発展した。その機能拡充の必要から、大規模な海岸埋め立てが進められ、オコバチ川から手宮地区にかけて、南浜、北浜地区3万8000坪、さらに南接する砂留、有幌地区9000坪が埋め立てられ、新たな船入澗と市街地が造成されたのである。明治20年から26年にかけてのことであった。そして、早くも23年には、南浜に小樽倉庫(シャチホコのある倉庫)の石造倉庫一棟が新築落成したのである。(p.24)


港の機能拡充のための埋め立ての時期と現在の運河周辺(当時は運河はない)の倉庫群の初期のものの造成が同時期であったということは銘記しておきたい。



 運河の山手にある倉庫は明治年間のものが多く、明治ということでお判りのように運河の出来る以前のものです。(p.32)


運河より先に倉庫があったというのは、現在の情景からするとちょっと想像できず、意外性があるように思う。

また、運河の山手にある倉庫と海側にある倉庫で年代が違うというのも面白い。



 統計によりますと、明治24年には小樽市内の石造営業用倉庫は41棟、明治31年には108棟、38年では141棟、41年で171棟というのがピークです。(p.32)


小樽の経済の最盛期は日露戦争終結後の1905年(明治38年)から1930年代頃までなので、倉庫の数のピークは小樽の経済のピークが始まる頃であるということは、その後の発展のための基礎的な投資がなされた後、ビジネスモデルが変化しながらも繁栄を続けたように見受けられる。

北前船のビジネスが終焉を迎えるのは明治末期だから、北前船から西洋型の蒸気船での運搬が主流になることによって倉庫は不要となっていったものと思われる。また、第一次大戦の際に小樽は雑穀をヨーロッパに売ることで儲けた商人が出たというが、船がそれまでの間に変わっていたということもその背景をなしていたのだろう。



 屋号を調べること、それがどういう人であるかを調べることは、同時に、小樽の商業の歴史を調べることです。……(中略)……。
 こうした屋号は、函館ではもう無くなりましたし、札幌では探そうたって無理です。小樽でしか出来ないことであります。(p.33-34)


興味深い論点。



 それから、この計画に携わった人の中に、田辺朔郎という人がいます。この人は琵琶湖の疏水を作った人です。実はあの疏水は田辺さんの卒業設計だったのです。それを直ちに京都の知事がとり上げたものなんです。当時の工学学士というものは、実に偉いものだた、ということを感じます。
 小樽運河では広井勇さんが有名ですが、この田辺さんが上司にいてかなりの決定権を持っていたことは、余り知られていないので、この機会につけ加えたいと思います。(p.34-35)


昔の学士は偉かったと言っているが、当時はそれほどまでに人材が不足していたということであろう。

広井勇は小樽港や小樽運河の絡みでは非常に良く出てくる。しかし、土木工事というのは個人で出来るものではないのだから、英雄史観に陥らずに叙述されるべきだと思われる。そして、これは建築に関しても言えることだろう。

ただ、旅行ガイドや簡単な解説などではどうしてもわかりやすい方に流れてしまいがちであり、その辺のバランスというか紹介の仕方というのは実はなかなか難しいものがあるように思われる。



 “銀行の去った町”というタイトルのテレビが放映されたことが雄弁に物語るように、昭和36年の住友銀行を皮切りに、協和、勧銀、三和、第一、東京、三菱、富士などの大手都市銀行が、10年以内にすべて札幌へ支店を移してしまう。一方では、機械や施設の近代化で、艀に頼る沖荷役から埠頭での接岸荷役に切り替わり、鉄道から自動車へと主役が変わる。このような状況下で、“運河無用論”がささやかれ始める。運河は小樽斜陽化のシンボルだというわけだ。(p.36)


1960年代の10年間で小樽から銀行が去っていった。昭和41年(1966年)に運河の埋め立てが決定されるが、確かにこれだけのペースで銀行が去っていく状況下では、行政や経済界が焦るのもわかるような気がする。



 もともと、昭和41年に事業決定した道道臨港線の当初計画では、運河埋立ては49年4月と予定されていた。しかし、あのオイルショックによる国の公共事業抑制策のあおりを受け、工事が一時ストップされていた。出遅れていた保存運動に“時の氏神”がほほえんだかのようだった。(p.60)


幾つもの要因が複雑に重なることによって事件が推移したことがわかり興味深い。



 この動きを見ると、≪守る会≫陳情を、道議会が採択し、その意を体して道教委が小樽市教委に<調査、対策>を通達したことの重さが、設立総会にはずみをつけ、反面、小樽市当局に本格的な“守勢”を取らせたありようがうかがえる。(p.92)


設立総会というのは、昭和50年6月24日の「小樽運河を守る会」の設立総会のことである。

昭和50年3月14日に道議会は守る会の陳情を本会議で採択し、5月23日に道教委から市教委あてに通達が出ている。

市民運動の陳情の効果が波及していくプロセスというのはなかなか見えにくいものなので、興味深いものがある。



 運河、石造倉庫群、歴史的建築物の沿革、現況を説明するなかで、「色内通りに沿って南北には商社や問屋、裏には回漕店、倉庫業、港湾の諸施設、西には小売商店がひろがり、そのままの様相で現在の市街地構造として引き継がれている」と結び、木骨石造建築物を基に市街地形成の過程をはっきりとどめているのは全国に例がない、と結論づけています。(p.112)


市街地の展開。



 さて、あえて運河保存を表明しない、というのが≪ポート≫であった。小樽市民、そして近郊や札幌の人々が、楽しむために運河べりに集まってくることが第一義で、≪ポート≫は結果として≪運河問題≫を考える場の提供となればよい、という一種の役割分担策を建前とした、と眺めることができる。
 実行委員長の渡辺さんは、「今後、小樽の観光資源を考える会などをつくってポート・フェスティバルの精神を持続させたい」と語った(『北海道新聞』)。
 保存派がらみではなかった実行委員にも、たしかな手ごたえが残った。“小樽の顔”である運河の“観光価値”を強く実感した人々が自然とふえてくる。まつりは終わったが、運河問題を含めてこれからの小樽をどうしていくか。斜陽の町から抜け出すために、≪ポート≫をやり遂げた精神を持続しなくては――。
 こうして一ヵ月後の53年8月13日、≪小樽夢の街づくり実行委員会≫(略称=夢街。委員長は佐々木興次郎さん)が誕生した。(p.157)


少し前に「おたる案内人」のテキストを読み、小樽運河問題の際にいくつかの市民運動の団体が出来たことを知ったのだが、テキストを読んだだけではそれぞれの団体の意味やポートフェスティバルの持っていた意味などが十分理解できなかった。本書によってようやくそれらの位置づけが見えてきた感がある。

「ポート・フェスティバル・イン・オタル」というイベントは運河周辺に人を呼び出すことで「実績」を作り、また、その中で運河問題を考える場を作るという形で保存派の中核である「守る会」をサポートし、運河問題に関心を持つ人の裾野を広げることが目的であり、観光による街づくりという観点から運河を活用するという方向性でそれを展開していくのが「夢街」ということなのだろう。

また、本書の著者が所属していた「小樽運河問題を考える会」は運河とその周辺の木骨石造倉庫群を「文化財」として捉えることで、保存しようとする文化人の集まりであり、とにかく運河を保存するという一点だけで集まろうという「守る会」とは観点が若干異なっていたということも本書を読んでわかったことである。

市民運動を展開する際、複数の視点から複数の団体が立ち上がり、それぞれが独自性を持ちながら連携していくというのは、難しい面もあろうが興味深い戦略でもある。



 幅40メートルの運河を17メートルに狭め、六車線の自動車専用大幹線が、歴史的文化財的町並みのド真ん中を昼夜疾駆したならば、景観との<共存>も<有機的結合>もあったものではない。児戯に類する机上の作文を楯どる小樽市当局の≪文化≫感覚の貧寒さは、まさに痴呆的である。(p.201-202)


飯田勝幸氏によるいわゆる「飯田構想」に対する筆者の批判であるが、飯田構想が現実化し、そこに多くの人々が観光客として来ている現状から見ると「批判のための批判」に聞こえてしまうし、最後の一文などは単なる誹謗中傷でしかないことが露呈してしまっている。

残念ながら、これが当時の保存派の、しかも「文化人」として保存を主張していた人による当局批判の実情なのである。



 運河と石造倉庫群の町並みについても、市長や市教委は、これを≪文化財≫と認めることを避け通してきながら、いつの間にやら(天下の大勢に押されて)しぶしぶ認めた形になっているのも、主体性の無さを物語る。(p.202)


この箇所などもまさに「批判のための批判」ないし「非難のための非難」であるように思われる。むしろ、保存派の主張する文化財としての価値を当局が認めたならば、それを積極的に評価し、当局はどのように、また、どの程度まで文化財としての価値を認識しているのかを問うべきであるのに、著者は単に自分と意見を同じくしないというだけで当局を全否定しようとするかのような姿勢となっている。こうした独善性は「守る会」の終盤における分裂などにも見られたものであるように思われ、当時の保存派は半ば原理主義的なセクトと化してしまっていたようにすら見える。



 しかし、この<保存運動で培ったもの>を、何に、どう活かしてゆくか、そこに≪小樽=運河≫に寄せた全国各地の人々の耳目が集まっている。いわば新しい≪教科書≫づくりの行方が問われているのだ。私が、≪運河戦争≫は終わったが≪小樽運河問題≫を終わらせてたまるか、と素志の持続を想望するゆえんでもある。(p.270)


運河戦争は終わったが運河問題は終わらせてはならないというメッセージは非常に重要である。

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