アヴェスターにはこう書いている?
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北海道高等学校日本史教育研究会 編 『札幌・小樽散歩24コース』(その1)

アイヌは道南で和人と接し、東北地方とも交易活動を行い、樺太や大陸でもその地の諸民族と交易を行っていた。14世紀末には樺太へ進出し、明との朝貢交易でいわゆる唐物を得ていた。しかし15世紀後半に明がアムール川流域から後退すると、アイヌはそれらを入手できなくなり和人との交易の優位性を失ったという。(p.7)


15世紀前後というと、世界全体として経済が不活発だったと思われるが、そうした不況の時代(?)には、末端的なところから順に苦しくなるというパターンがあると私は考えるのだが、このアイヌの和人との交易での優位性喪失もその一例であるように思われる。



 1604(慶長9)年、松前氏は徳川家康より黒印状をうけ蝦夷地交易権を得るとともに江戸幕藩体制の一員となった。米のできない松前藩の存立基盤はアイヌとの交易独占権であった。そのため藩の所在する和人地と交易する場所としての蝦夷地を区分し、さらに蝦夷地を東西に分け、交易場としての商場を設定、それを藩主一族や上級家臣に知行地としてあたえた。知行主は交易船をだして商場地域のアイヌと物々交換し、入手した産物を本州商人に売却して知行とした。……(中略)……。その後イシカリ川流域の商場での場所請負制確立は享保期(1716~36)で、オタルナイ場所の開設も享保期という。(p.7)


幕府より松前藩がアイヌとの交易独占権を与えられ、松前藩は蝦夷地に商場を設定して家臣に知行として与えて、そこで交易を行わせたが、さらにその商場を商人に請け負わせてその収益の一部を家臣たちが吸い上げるというシステムへと変容していった。政治的な管理が次第に弱まり、民営化的な方向へと進んだ。

しかし、18世紀半ばにはロシアの南下に備えて蝦夷地は幕府の直轄となり、19世紀には一度松前藩に戻された後、再度直轄化されるなど、政治的な要因によって統治体制がかなり変わっている。しかし、場所請負制自体は残っていたようであり、経済的な活動の規模が政治のみによって統御できる規模を超えていたことが推測される。



島は開拓当初より計画的な都市造りを進め、街を大通りで南北、大友掘で東西に分けるという碁盤都市を想定し、大通りの北側は官公地、南側は商業地という基本的な街並みはこのときに決定された。(p.8)


判官・島義勇の時代の都市計画(構想)が現在の市街を規定している。なお、大友堀とは現在の創生川である。大通りの北には北海道庁などの官庁があり、北海道大学や駅などがあり、南には狸小路や薄野があるが、この配置はまさに島の構想が現在にも生きていることを示している。



1887年ごろになると北前船にかわって西洋型帆船や汽船が入港するようになり、1889年には米・酒などを輸出できる特別輸出港、1899年には国際貿易港となって横浜、神戸につぐ貿易港となる。この年小樽に区制が施行され、1885年の人口約1万3000人が約6万2000人に急増している。さらに日露戦争後は南樺太への消費物資供給地としても繁栄し、貨物の増大に対して1923年には運河が完成された。(p.10)


小樽の経済が恐らく最も急速に発展していった時代がここに記述されている時代ではなかろうか。ちょうど日清戦争と日露戦争、そして第一次世界大戦の時期と重なっている点には注意が必要だろう。特に日露戦争により南樺太が日本領となったことは小樽の経済発展において極めて重要な意味を持っていたようである。


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