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マーク・ブキャナン 『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』(その3)

 「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。
 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。そしてまた将来、そのような災難をどのように回避したらよいかを知ることもできる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。
 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣したにすぎないととらえている。(p.325-326)


私が「英雄史観」として批判している歴史の捉え方を「偉人理論」という名で呼んでいるのが興味を引いたので引用した。

英雄史観ないし偉人理論は、歴史的事実の背景となる情勢への配慮が足りないため、事実を理解するために見なければならない事実を隠してしまうという点で有害である。



 したがって、偉大な人物が大きな出来事の中心にいたとしても、その人物がその出来事の推進力を与えるわけではない。そのような偉大な人物の置かれた立場こそが、その人物自体よりも重要なのだ。(p.328)


ネットワークにおけるノードそれ自体の性質よりも、そのノードの位置価(ハブであるかどうかなど)が重要である。



臨界状態にある世界では、偉大な役回りは必ず存在し、そこに当てはめられる砂粒も必ず存在する。
 これと同じことが、人間の歴史についても言えるのだろうか?人格や知性に関して他の人より影響力の強い人物がいるということは、否定できない。しかし少なくとも理論的には、我々の世界は臨界状態と非常に似た状態にあるのかもしれない。そのような世界においては、すべての人間が能力的に等しいとしても、そのうちの何人かの行動は、まさに驚くべき結果をもたらすことになる。彼らの行動の影響力は、歴史が進んでからでないと明らかにならないので、本人たちはそれに気づくこともないかもしれない。そのような人物たちは、きわめて重要な社会的変動を生み出したということで、偉人として知られるようになるだろう。そういう人たちの多くは、確かに特別な人物かもしれない。しかしそれは、彼らの偉大さが彼らの引き起こした出来事の大きさの原因である、ということを示しているのではない。(p.331-332)


べき乗則が成り立つ場合、結果の大きさからそのきっかけとなった原因の大きさを計ることはできない。ここからは個々の人物の能力や人格よりも、それがある役割を果たした位置やその背景となった「臨界状態」のあり方を知ることの方が事柄の理解には役立つということが言える。



今世紀の偉大な歴史哲学者の多くは、はたして歴史が「科学」かどうかということを議論してきた。しかし彼らは、自分たちの考えている科学が十九世紀の時代遅れのものだということを、理解していなかったようだ。もし彼らが、同時代の科学者が実際にどのようなことをやっているのかにもっと注目していたとしたら、自分たちが誤った質問をしていたことに気づいて驚き、そしておそらく喜んだであろう。自然科学における最近の偉大な進歩の多くは、本質的に歴史的な性質を有しているからだ。(p.349)


ここはニーアル・ファーガソンという歴史学者の言葉を引用している部分だが、的確な指摘である。

これは人文・社会科学と自然科学との考え方の分離といういわゆる「二つの文化」論にも波及する論点であるように思われる。いわゆる理系と文系を切り分けることにはあまり根拠はないということ。



増田直紀氏による解説。

 私たちは、平均値思考やつりがね型分布に慣れすぎてしまっている。日本の平等教育の影響もあるだろう。べき乗則においては、平均値に目を奪われると本質を見失う。これは、昨今の格差社会を理解するための一つの切り口かもしれない。同じことは、会社の規模や本の売り上げなどについても言える。(p.362)


的確な指摘であり、これはネットワーク研究から学べることの一つである。



 ネットワーク科学(「複雑ネットワーク」とも言う)の研究は1998年頃に始まった。(p.363)


萌芽はもう少し前からあったと思われるが、いずれにせよ新しい学問領域であることは確かである。



原注より。

経済学者たちは、たとえそれが失敗したとしても、自分たちのお気に入りの理論を捨てようとはしない。それは、その道具としての実用性を無駄にしたくないからだ。(p.373)


なるほど。なかなか説得力がある。私の考えでは、ここで指摘されるような道具としての実用性だけではなく、そのパラダイムがなくなってしまうと、彼にとっては世界を理解する手がかりがなくなってしまい不安に見舞われるということもかなり大きな要因ではないかと思われる。

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