アヴェスターにはこう書いている?
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吉田徹 『二大政党制批判論』(その4)

簡単にいえば、政党は社会の脱政治化や党派性の低下に伴い、社会の利益を集約する機能を失い、したがって相対的に政策形成機能や統治機能を肥大化させているのが現状である。(p.181)


なるほど。社会が脱政治化しているという点を除いては納得できる。

私が思うに、社会は過度に政治化されてきているために利益を集約できなくなっているという方が妥当だろう。経済界や金融が政治に持つ影響力は30-40年前と比べると格段に高まっており、実質的な政策では民衆の意見よりこうした世界におけるエリート層の意向が反映されやすくなっているし、経済も中間層が没落する傾向を強めているため政治への不満や関心が高まっている(ヨーロッパでのネオナチなどの台頭や日本でも政治バラエティ番組画などが増えていることなどもそうしたことを反映している)が、彼らの大部分は意思を政党に伝える手段を持たないからである。

なお、政党や政府からメディアを通じて流されるキャッチフレーズなどは、大衆の心理に受け入れられるように計算されることになるが、それが具体的な政策として影響を与える度合いは小さいだろう。象徴的な政策は打ち出されるだろうが、効果よりやったという実績作りに利用されるのではないか。



 90年代に政党が「マニフェスト」に依存したり、コミュニケーション戦略を念入りにしていったのは、政党政治が空洞化していった結果として生じたもので、その逆ではない。90年代の政治改革は、こうした傾向を押し止めるどころか、推進させていった。このことは、社会の中に政党組織を根付かせようとしてこなかった日本の近現代の政治で、そもそも生じていた政党不在がさらに強まるという、二重の苦難を生じさせていることを意味する。(p.184-185)


的確である。



 佐々木毅は、政党を「人民の選択を公共政策へと『翻訳』する組織的装置」と定義し、これまでのような人民の要求に応える(responsive)のではない、責任(responsible)ある政党政治のあり方を構想しなければならない、とする(『政治学講義』東京大学出版会、1999年)。また、政党を国民の「政治的統合」の担い手として位置づけ、首相と内閣を頂点とした政治主導のあり方の重要性を説いている(『政治の精神』岩波新書、2009年)。
 しかし、「責任ある」政党政治はエリート主義的な政党政治を前提にした場合のみ十全に機能するシステムである、と付け加えるべきだろう。なぜなら、二大政党制はそもそもからして「要求に応える」素地に乏しい政党政治のあり方だからであり、また明治・大正期の日本の政党政治の歴史、さらに政党がますます社会から遊離し、独自に政治ゲームを展開するようになった現代社会では、政党が「責任ある」行動をとるだけの前提条件が失われているからである。日本の90年代の政治改革は、こうした前提条件を覆すだけの内容を持つものでもなかった。(p.196-197)


二大政党制にかかわる議論では、この「責任ある」という言葉がよく使われる。政策がうまくいかなくても政権交代によって責任をとることができる、というような話として使われるが、その胡散臭さは指摘していく必要があるだろう。

引用文とは別に思うところを簡単に書いてみる。政策が失敗して人々に悪い効果(例えば財政破綻によるハイパーインフレ)をもたらしたとして、政権交代したらその政権が責任を取ったことになるのか、というと、そんなことはないだろう、というのが私の考えである。責任を取るというのは可能な限り現状を回復させることによって果たされるべきであろう。ハイパーインフレの責任はインフレの解消によって生活が再度安定することによってのみ果たされるのであって、ハイパーインフレが続いたまま政権党が代わったからといって責任を取ったことになどならない。

その意味で、政権交代があることによって「責任ある」政治が行われうるというのは、全くの大間違いである。本書が指摘するように政党が社会から遊離していることによって、「責任」を果たすことはほとんど不可能になっていると考えられる。社会に根ざしている政党であれば、相互の意見や金銭の授受によって政党と社会の利害の一致を得やすいため、社会への効果が政党にも波及することで責任をとる(原状を回復しようとする)インセンティブが働くが、メディアを独占したカルテル政党であり「選挙プロフェッショナル政党」となっている現在の日本の政党には、そのような率直な意見と利益の交換は不可能といってよいのではないか。



人々に協働する場所を提供し、そして協働することで目の前の現実を変革する手ごたえをもたらす機能を、政党は本来的に有している。そのような「協働性」を持つからこそ、政党は歴史的に生まれ、発展してきたのである。
 政党は単に「政権を奪取する」ための存在ではなく、人々を結びつける作用も持つ。(p.207)


政党というものについてほとんど考えたりする機会がないわれわれにとって、こうした指摘は新鮮に感じられる。しかし、ヨーロッパにおける政党の歴史などを紐解くとこうした側面はわれわれが現在日本で感じているのとは比較にならないくらい強かったようである。このあたりは私が本書から学んだ点である。



 多くの先進国では、60年代まではイデオロギーをめぐる対立が続き、政権交代が実現するようになった70年代以降は利益配分をめぐる政治が続いた。しかし、冷戦は終焉し、戦後のような高度成長が不可能となって再分配そのものが難しくなった現在では、残る「政治的闘争」は極めて個人的な次元のものでしかあり得ない。
 政権交代を経験したこうした先進国では、80~90年代の新自由主義の時代を経て、徐々に「右派権威主義」と「左派リバータリアン」と呼ばれるような対立が政治の争点となってきた。これは、地域や家族などの共同体の価値や秩序や家父長の権威を重んじる立場と、個人の自由や自己決定権、多様な生き方を重視する立場と言い換えることができる。こうした対立の次元は、日本の政党政治ではまだ本格的に採り入れられていない。
 これまでの日本の政党政治は政治体制をめぐる対立以上に、利益を「誰に」「どのようにして」分配するのか、という争点をめぐって長らく展開してきた。だからこそ、政治はどこか縁遠く、自らの物質的な欲求の反映の延長線上のものとして捉えられてきた。しかし、デモクラシーを活性化させること、つまり私たちが政治によって損なわれることがないようにするためには、個人と政治の関係はもっと直接的で精彩を放つものであるべきだろう。(p.208-209)


「先進国」における政治闘争の変遷の概観はなかなか興味深い。イデオロギーは「資本主義対共産主義」ということになるのだろうが、ここで「資本主義」が勝利し、利益配分をめぐる闘争の結果、「国境を越えて移動できる資本」を強化することになり、イデオロギー闘争時代における「資本主義」側の勝利がさらに強められる方向に進んだと見られる。(経済イデオロギー的にはケインズ主義とマネタリズムなど新自由主義の闘争において、ケインズ主義を主張する側が敗北したという形になる。)左派は共産主義やケインズ主義という政治的な配分の方式を失い、政府による配分を望めない中で「左派リバータリアン」のような価値観によって「資本家(投資家)」と結託する傾向が強い「共同体主義」との戦いが繰り広げられている格好になる、と見ると、この闘争の歴史に一貫したものが見えてくるように思う。

また、デモクラシーがよく機能しているということは「人々が政治によって損なわれない」ことであるという視点は重要である。

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