アヴェスターにはこう書いている?
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堀本洋一 『ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る 19世紀末から20世紀初頭の装飾芸術』

「アール・ヌーボーの勝利」と謳われたこの1900年のパリ万博を境にアール・ヌーボー様式はアクセサリー類の小物から建築にいたるまで全ヨーロッパに急速に広まっていったのである。(p.4)


比較的安価な新素材と新技術、そして、相対的な「金余り」(流動性過剰)ということがアール・ヌーボーの流行の背景にあるように思われる。



 ヨーロッパが最もヨーロッパ的であったといわれる19世紀末から第一次世界大戦が始まる1914年頃までのごく短い期間、古典と近代のはざまに咲き乱れたアール・ヌーボー建築とは何であったのだろう?(p.5)


このフレーズはいろいろなことを考えさせられる。

「ヨーロッパが最もヨーロッパ的であった」というのは、国民国家が制度化され、帝国主義的に進出することで「ヨーロッパ」のアイデンティティが求められ、それが確立した時代であったことが背景であろう。つまり、「ヨーロッパ」のイメージがこの時代に確立されたことの反映だろう。

また、19世紀末から1914年頃までというのは、アール・ヌーボーという流行の期間が短かったことを示しているが、それと同時に、戦争によって芸術家(建築家)たちが国境を越えることがやや難しくなり、コミュニティが国別に分断されたのかも知れない。建築家のネットワークという視点が少しずつ私の中で育ってきているので、今後も少しばかり注目しながら見ていきたい問題である。

さらに、「アール・ヌーボー建築とは何であったのだろう?」という問いもまた、様々な答えがありうるだけに思考を動かされる。私はもっと古典的な古い様式を好んできたので、アール・ヌーボーについてはまだほとんど知らない。アール・ヌーボーについて少しずつ造詣を深めていく中で、この問いに対する答えも沢山見つけていきたいものである。



それが1980年代半ば突如として日本に一大ガウディブームが訪れ、日本からガウディ詣での団体ツアーまで組まれる時代になってしまった。(p.26)


日本でガウディが注目されるようになったのは比較的新しい。恐らく世界的なブームになったのも似たようなものではないだろうか?

世界金融の仕組みがガウディの生きていた時代に近づき始めた(ブレトン・ウッズ体制が崩れたためそれ以前と類似点が増えてきた)頃に呼応しているのが私の興味を引く。

日本ではバブル景気に突入する時代であり、そうした時代にはモダニズム的なものよりもガウディのような遊び心のあるものが好まれるのは納得できる。そして、そうした浮かれた社会的な雰囲気は金融自由化と絡んでいるというのが私の見方である。



ただカタロニアという土地は中世に黄金期を迎えた後、何世紀にも渡る衰退の時代を経験している。ようやく18世紀に入って再生の兆しが芽生え減少していた人口も徐々に回復、19世紀後半に締結されたアメリカ貿易の自由化という経済活性化の起爆剤によって商業の発展、資本の蓄積と集中、そしてスペインで最初の産業革命へと繋がっていったのである。(p.27)


スペインの経済がようやく上向き始めた頃、カタロニアは多くの芸術家が輩出した。本書では中世からの「文化的アイデンティティ」が受け継がれていたとしているが、そうした見方は適切とはいえないだろう。もちろん、その土地でのみ見られるような建築やデザインなどをその土地の人間は学ぶだろうが、それは「自己」同一性を保って流れてくるようなものではないように思われる。

その時代のカタロニアで芸術家が多く出たことについて、何が重要な要因となったかは、同時代の他の地域との結びつきやその時代に生きていた人間が何を知ることができ、何を見ていたか、ということをもう少し仔細に見ていく必要があるだろう。



 バウハウスからキッチュと嘲笑される運命にあったユーゲント・シュティールは1914年、第一次世界大戦でその短い命を終えるが、それまでヨーロッパの都市造りを支配していたアカデミックな新古典主義を突き崩すだけの歴史的役割は果たし得たのである。(p.48)


これはドイツにおける状況を説明した文であるが、いわゆるアール・ヌーボーというスタイルの歴史的な意味ないし役割は古典的なスタイルを「唯一の権威」の座から引き摺り下ろしたことにあるように思われる。つまり、新古典主義のみに限らず、ルネッサンス様式やゴシックなどの復興様式も含めて、古い時代の様式に範を求めずに新たなデザインを模索するという試みを行った結果、権威を否定することとなったように思われる。

この動きは、絵画における印象派が古典主義的なサロンと対峙しながら台頭してきたことなどとも通じているように思われ、また、科学史上においては18世紀の新旧論争などを経て「科学(学問)の進歩」の観念が19世紀には既に常識化していたこと(ここでは古いものは必ずしも最高のものではない)とも類似の変化であるように思われ、これら全体と関連することだが、社会層としては貴族とは異なる市民層が力を増してきたことが当然にその背景にあり、富裕な市民層が急速に増えることができるのは、金融のあり方とも絡んでいると見る。

現代におけるアール・ヌーボーの再評価は、古典的スタイルとの関係性というよりは、「自由で少し遊びのあるデザイン」がモダニズムやポストモダニズムへの批判と結びついて評価されているように見える。まぁ、このあたりはまだ十分な知識もないので、暫定的な意見としておきたい。



 1839年、ヨーロッパ列強の緩衝地帯として統一ネーデルランド王国から分離独立したベルギーは新興国ながらも19世紀末には早くも植民地政策で列強と肩を並べるほどの国になっていた。コンゴ民主共和国(1960年までベルギー領コンゴ)の象牙、ダイヤモンド、ゴムなどは世紀末のベルギーに莫大な利益をもたらし多数の新興ブルジョアを生む。彼らは新興としての自分達のアイデンティティを求め、競ってアール・ヌーボー建築の施主となった。しかしブルジョアと個人の嗜好にその基盤を置かざるをえなかったこの様式は、世界大戦やアメリカの勃興など時代のうねりと価値観の変化の中で消え去る運命にあった。それから約百年、建築を四角い箱としてしか認識しなくなってしまった私たちに、アール・ヌーボーは今なお夢を追い求めるメッセージを発信し続けているようだ。(p.79-81)


この本を読んだのは結構前で個別の内容は忘れかけていたのだが、この箇所は上で私が述べてきたこととかなり重なるところが多いことに今さらながら気づく。

帝国主義ないし植民地主義の政策による植民地搾取と、それにより富を得たブルジョアが施主として担い手であったことなど。今までの行論では建築家に着目したが、施主への注目の方がより重要かもしれない。

アール・ヌーボーの現代における評価としては、やはりモダニズムに対する批判・反動として注目されているようだ。



レンガの芸術は労働者階級のためだった

 アムステルダムの世紀末建築のキーワードは「レンガ」である。オランダの世紀末建築は赤レンガの東京駅のモデルになったP.J.H.カルペイスのアムステルダム中央駅(1881~89年)から始まる。それはネオゴシックとレンガ壁を合言葉にしたオランダのアール・ヌーボースタイルの立ち上がりともいえる。(p.154)


レンガ造の建築は日本では割と高級感のあるものとして官庁などの公共建築などに使われた時期があったが、一般的には「労働者階級のため」ないしそれに近いようなもの、すなわち比較的卑近で安価な建築であった。

近々復元されるという東京駅のモデルはどんな駅舎だったのかちょっと気になるところだ。近頃、個人的に駅舎の建築になぜか興味が惹かれるようになっているので。


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